UP20020305
TOP OF THE WORLD ― 7 恋でなく
まっすぐに見つめてくる目が、忘れられない。 手塚の瞳の残像を目前にちらつかせながら、どうやってもそれを振り払う事が出来ずに、リョーマはらしくもなく、半ば目を伏せる。 今までにそういう事が、なかった訳じゃない。けれど大抵の場合、他愛のない事を話す時にはまっすぐ前を向いたまま、淡々と言葉を紡いでいた彼。会話をするリョーマはいつも彼の隣りにいたのだから、その視線が合う事はきわめて少なかった。 けれど、あの時の瞳は。 ほんの些細な会話のフリ。Forget-me-not、勿忘草の伝説を、きっぱりと彼流に一蹴した時の、彼の瞳は。 「反則だよ……あの目は」 誰もが彼に魅せられてしまうという事実も、それだけで納得できてしまう。けれどそれと同時に、思う事もある。 だからこそ、彼を望むのは、自分だけではないはずだ、と。 「……ちょっと、待って」 彼を、望む? 望むって、誰が。――自分が。 望むって、誰を。――手塚を。 望むって、どんな風に。――わからない。 ねえ、わからないよ。あんたの事が。 怖いくらいの存在感でそこにいるあんたが、何を考えているのか。どうしてそんな風にあり続けるのか。そもそも、どうしてあんたがこの世に存在しているのか。 支離滅裂だ。 ずいぶんと、驚いた顔をしていた。 うっかりと本音を洩らしそうになった自分の言葉を、視線をその身に受けて目を見開いた彼。いつも余裕の表情を崩さずに自分を翻弄していた彼が、今は何かに戸惑っている。 手塚が思い出すリョーマの瞳は、いつも深くてきれいなものだったけれど。 その中に生まれ出た戸惑いと光は、今までの彼にはなかったもの。 それを導き出したのは、誰でもない自分。 望んでやった事だ。 今までの自分の行動すべて、それを望んでやってきた事だ。手塚はもう、知っている。自分が、彼に何を求めているのか。わかっていても最後の一歩を踏み出せないのは、それによってこれからのリョーマのすべてを、狂わせる事になるかもしれないからだ。 いつもどこか遠くを見据えながら言葉を紡いでいた手塚。いつからかそういう風に話をするようになったのは、自分の瞳の強さが相手を萎縮させる結果になる事を自覚していたからだ。 視線というのは、考えている以上に他を圧する力になる。 だから誰かと、特に学校の後輩などと話をする時に、手塚は微妙に視線を逸らす。相手を必要以上に怯えさせる事の無いように。けれど部活動で必要事項を伝達する時にはやはりつい相手をまっすぐに見てしまうから、その迫力もあって、まわりは手塚を尊敬と共に畏れるのだ。 手塚のまっすぐな視線を、負けずにまっすぐに捕らえたリョーマ。彼はその強さを、誇っていい。 手塚が相手を見据えて言葉を発するのは、それがとても大切な事であるからだ。それを知ってか知らずか、リョーマはむしろそれを求めているように、手塚には見えた。 誰もが憧憬を抱きながらも畏れる手塚の一部分に、逆に強く惹かれるリョーマ。 だから、手塚も気付いた。 自分にとって、リョーマが何なのか。 大切な何かを主張する時だけではない。自分にとって、大切な何かをこの目に捕らえようとする時にこそ、手塚はその対象に、偽りのないその瞳を向けるのだ。 けれどそれは多分、彼に伝える事は、出来ない――。 「最近、何考えてんの?」 くわえたフルーツ牛乳のストローを吸うと、ズズ、と音がする。リョーマは自動販売機の側方の壁に寄り掛かったまま、空になったパックをクズカゴに放り込んだ。となりでリョーマの言葉を聞いていた手塚が、同じように空になった烏龍茶のパックをリョーマに寄越す。リョーマがそれを受け取って反対隣のクズカゴに放ると、手塚は微かに溜息をついた。 「何を考えてる、とはどういう事だ?」 「そのまんまの意味」 昼休みの購買部は、そこに集まる多くの生徒で賑わいを見せている。その喧騒もまったく意に介さないような二人がまとっている雰囲気は、この場にあって一種異様だ。 二人は特に待ち合わせてここにいる訳ではない。偶然鉢合わせただけである。同じ学校の中なのだから可能性が低い訳ではないが、こんな風にばったりと出会うのは何度目になるだろうかと、お互いがぼんやりと考える。 「部長、俺に言ってない事あるでしょ」 何事も隠し事があってはいけない、という意味ではない。そもそも、そんな事を主張するような間柄ではない。リョーマがそんな風に言うのは、手塚が何かリョーマに関して思う事があって、それをリョーマに伝えようという素振りを垣間見せていながら、それをまだ実行に移していないからだ。 「……お見通し、という訳か」 手塚にしてはすんなりと、事実関係を素直に認める言葉を口にした。 「だがお前は、自分の事は良くわかっていないのか? いや……気付いているはずだな。お前はまだ、自分の中で整理しているものがあるはずだ」 「……」 図星である。 「認めるけど……その整理がつくまで、秘密って言いたい訳?」 「そういうつもりじゃない」 手塚と同じように、リョーマの中にも混沌とした何かがあって、手塚はそれに気付いた。それがどういったものであるのか、どういう方向に転んでいくのか。それを見定めてから自分もそれをリョーマに告げる気でいるのか。それは手塚にもわからない。 それを告げてはいけない、という思いの方が、手塚の中では強かった。 リョーマがどういう思いに辿り着くのであれ、今手塚が抱いているものをリョーマに提示してみせろというのは、とてもできない相談のように思える。不必要に彼の負担になってしまうか、まったくなかった事になってしまうかのどちらか、だ。 どちらにせよ、いま正に心の中で葛藤を続けるリョーマに、手塚の結論を押し付ける事だけは、できない。 「……予鈴だ」 にわかに鳴り響いたチャイムの音に、手塚は敏感に反応した。まるで、逃げる口実ができたとでも言うかのように。 「部長」 「お前ももう教室にもどれ。部活は遅刻するなよ」 「部長!」 壁から背中を離した手塚は、リョーマの呼びかけには振り返らずに、そのまま廊下を折れて姿を消してしまった。 「……部長のばーか……」 こういう時、上手く導いてくれるのも先輩の仕事なんじゃないか、と、ほんの少し理不尽な事を考えながら、リョーマも自分の教室へと足を向けたのだった。 そうしてそんな時に限って、手塚は不二と出会ってしまう。 何もかもを見透かしたような、彼と。 「珍しいね。もうすぐ本鈴だよ」 「……」 だんまりを決め込む手塚に、不二はおや、と思う。 「何かあったの」 「……」 以前に不二の言った言葉の意味が、今ならわかる。少なくとも、手塚にとってリョーマがどんな存在であるのか。多分、そういう事なのだろうと。あの時から、不二はお見通しだったのだろう。そして多分、リョーマに発破をかけた海堂も。 眉間に皺を寄せたまま、手塚は俯いた。 初めてだ。 誰かの前でこんな風に顔を伏せるなどという事は、自分で憶えている限り、手塚には前例がない。生まれてはじめてかもしれなかった。 「……怖い」 たった一言。 たった一言を口にしてしまってから、手塚はハッと我に返った。 「手塚」 ひどい失態に、己の名を呼ぶ不二の横を、俯いたまますり抜ける手塚。 リョーマからも不二からも、手塚は逃げる事しか思い付かなかった。 「手塚! 君が怖れるほど、越前君は弱くはないよ!」 背中にかけられた不二の言葉も聞こえていないかのように、手塚の姿は教室の中へと吸い込まれていった。 まるで恋をしているみたいだって、そう言ったよね。 ねえ、不二先輩。これが、そういう事なのかな? でも先輩は同じ口で、違うって言った。 「わかんないよ」 なんの音もしない静かな部屋で、パジャマ姿のリョーマはゴロンとベッドの上に寝転んだ。横向きに丸くなると、のっそりと上がり込んできたカルピンの体重を、上掛けをかけないままの腹部に感じる。 そうして何もない背中に、リョーマは手塚を感じた。 どうしてこんなに近くに、いつから彼を感じるようになったのだろう。絶え間なく。 他とまったく違う、強さと輝きを持ったその存在。試合をした時に感じた脅威、そして、今いる場所と、いずれそこを離れた先にある未来について語った横顔。 いつも、いつも。 初めて会った時から。 そうだ。 リョーマは閉じかけた瞳を、ゆっくりと見開いた。今はじめて得た確信に、そっとその身を起こす。本当に今まで、気付かなかったなんて。いつもいつでも、こんなに自然に手塚を感じていたのは、手塚の中に、自分が入り込んでいたからだ。もうずっと前から。 何よりも、どんな事よりも、自分がそれを望んで。 力強く差し出された手塚の手を、リョーマはすでにとっていた。 手塚がリョーマのために空けた空間に、自分はとっくに居座っていたのだ。 Forget-me-not。私を忘れないで。 忘れない。 おいて行く事も、おいて行かれる事も、ごめんだ。 けれど彼は、行くのだろう。 そうか。だからなんだね。だからあなたは、言えなかったんだね。 それでも、どうしたってもう――この胸から、あなたが消える事はない。 そして、あなたの中からも。 恋じゃない。 恋なんて、甘い想いじゃない。 友情とかいう、なまやさしいものじゃない。 あなたがいなければ、生きられない? そうじゃない。もう何をしていても。どこに行っても、そこにあなたがいるんだよ――。 きっと俺は、あなたに会える。 根拠のない自信を持ちながら、リョーマは校門の前にいた。早朝の学校は、登校してくる生徒の姿もまばらだ。というより、まだ今朝は誰も見ていない。 きっと、会える。 今までずっと、あんたと俺はそうやってきたんだからね。 その確信を裏切る事なく、そこに手塚が姿を現した。 「――珍しいな」 「あんたこそ」 朝練開始には、まだ相当早い時間。普段のリョーマはもちろんの事、いつもなら手塚ですら登校していない時間だ。事実、鍵当番の大石も、この時間にはまだ登校していない。 「一体……」 「ねえ」 手塚の言葉を遮るように、リョーマは手塚をまっすぐに見つめて言った。 「あんたはさ――行くんでしょ?」 手塚は、その瞳を見開いた。 どこへ、とは聞かない。聞く必要はない。 「……そうだ」 リョーマは、笑った。 「俺、あんたの傍に、いてもいい?」 ほんの一瞬、空気が澱んで時が止まったように感じた。 リョーマを見つめたまま微動だにしない手塚と、それを見つめ返すリョーマ。 あんたの傍に、いてもいい? すべての想いを込めたその言葉を、リョーマは手塚に投げかけた。 そして彼は正確に、その言葉を受けとって。 「……ずっと、言えなかった」 ぽつりと、手塚は言った。 ずっと、言えなかった事がある。それは手塚が、この世で何よりも望んでいる事。けれどそれを言ってしまったところで、手塚には、何もできる事がない。だから、言えなかった。 初めてリョーマをこの目に捕らえた時。彼をランキング戦に参加させた時に、手塚は彼を、早くこの競争社会に放り込んでしまいたいと、そう考えた。そう思っていた。だが、正確にはそうではなかった。手塚はただ、今自分がいるこの場に。テニスもそれ以外の事も、すべて含んだこの場所に。 これから進んで行くその道に、つまりは自分の人生そのものの中に、リョーマの存在を組み込んでしまいたかったのだ。 物理的な意味で、いつも一緒にいるという事ではない。途方もなく遠く離れる事もある。そんな時にも。そして時々自分が辿ってきた道を振り返った時に、いつもそこに、リョーマという存在があることを。手塚国光という記録の中に、いつもリョーマの名が併記されているようにと。 だから、言えなかった。 リョーマの人生そのものをからめとり、自分の中に取り込んでしまうような事を、手塚はリョーマに言えなかったのだ。 たとえば男女の間に存在するような穏やかな感情のように、相手を慈しみ守りあう事も、手を取って共に行く事も。その一切を、手塚はリョーマに与えてやる事ができない。手塚がこれから行こうとする場所には、必ずひとりで行かなければならない時もある。その時手塚は、リョーマをそこへ共に連れて行く事はできないのだ。自分はきっと、容赦なくリョーマをその場へおいて行く。絶対に消える事のない彼の存在だけを、その胸に抱きながら。 おいて行く事も、おいて行かれる事もごめんだ。 けれど自分は、それをやる。 勝手な想いだと、思った。 けれどこれだけは、一生覆る事はないと。 そんな手塚の中に、今、リョーマは完全に飛び込んできた。 すべてを理解した上で。 リョーマが相手の望みに合わせるなどという事はない。そうしたのは、リョーマ自身が、それを望んだからだ。そういえば、不二が言っていた。彼はそんなに、弱い人間ではないと。手塚の中で存在しながら、リョーマ自身も自分の思う通りの道を、歩いて行くのだ。 リョーマと手塚の想いは、完全に一致していた。 いや、本当の意味では、ほんの少し違う。 リョーマを引き寄せる事を望んだ手塚と、手塚の許へと飛び込む事を望んだリョーマ。 だからこそ、二人でひとつになれるのではないか。 『人』という、文字のように。 「傍にいてくれ」 手塚は今度こそ、まっすぐにリョーマを見つめたまま静かに言った。 やっと出会えたたったひとりの人に、リョーマは笑う。そうしてとても静かな仕草で、その広い胸に手を当てた。いつでもここにいる、とでも言うように。 「安心して、駆け上がっていきなよ。俺も、すぐに行くから」 手塚も笑った。リョーマの前で、初めて。 「待っていてやる事も、軌跡を残してやることもできないぞ」 「必要ないよ。俺はあんたの後を追ったりしないし、あんたを見失ったりもしない。どんなに違う道を辿っても、行こうとする場所は一緒だからね」 これを人は、絆と呼ぶのかもしれない。 結びついたのではない。寄り添ったのでもない。完全にひとつになった二人の絆は、もう絶対に、分かたれる事はない。 どんなに遠い道を行く時も。 思えば、今ここでひとつになった訳ではなかった。今やっと、気付いただけだ。出会った時から、ひとつだった。 いや。 「ひとつだったから、出会ったのかもな」 「……なに?」 「いや」 手塚の呟きをいぶかしむリョーマに、彼はただ首を振って、その肩を叩いた。 「行くぞ」 踵を返した手塚と共に、リョーマは歩き出した。 隣りを行く広い肩。ここに、自分の居場所がある事。 気付く事ができて、本当に良かったよ。すれ違ったまま、永遠に見失う前にね。 ひとりで生まれて、ずっとひとりで生きてきた。あなたと一緒になるために。 絶対に離れる事のない、あなたと二人になるために――。 |