UP20020314

TOP OF THE WORLD  ― 8 ON THE ROAD





 久しぶりの便りをリョーマのもとへと届けたのは、父親である南次郎だった。
 呼び出しに応じて近所の広場へと顔を出したリョーマに、その場で待っていた南次郎は軽く手を上げてみせる。
「よーお。一応生きてるじゃねえか」
「あんたもね」
 とても久しぶりに会い見える父と子の挨拶とは思えない。
「何でオヤジがここにいるのさ」
「かァ〜、ご挨拶だね。それがたったひとりの息子の言葉かねェ。晴れ舞台を、たまにはと思って家族一同で見に来てやったんじゃねェか」
 第一声が「一応生きてるじゃねえか」だった父親の言葉とも思えない。
 派手な仕草で、片手で額を押さえた南次郎に、リョーマはいぶかしげな視線を向けた。
「家族一同?」
「おー、母さんと菜々子ちゃんもいるぞォ」
「……」
 晴れ姿なんて、今に始まった事じゃないだろうに。
「まあ、今日オメーに会いに来たのは、これだ」
 ピラリと、南次郎は一枚の葉書をリョーマに見せた。
「ああ……」
 リョーマの自宅に宛てられた葉書の左下には、達筆な署名がひとつだけ。他には何も私信は添えられていない。
「手塚国光……か。相変わらずだね」




 手塚がリョーマの前から、いや、テニスの世界から姿を消してどれだけになるだろうか。二年ほどは経ったか。

 中学校を卒業してすぐに、手塚はかねてから話のあったカリフォルニアへの留学の道を進んだ。が、一年もする頃には、殴り込みでもかけるかのように颯爽と、プロの世界へと姿を現したのだった。その時誰も、リョーマですらそんな話を聞いてはいなかったから、それは日本に残っていた手塚の知人達を驚愕させる大事件となった訳だが、手塚らしいと言えばそうなのかもしれない。
 もっとも、リョーマとしてはわかりきったというか、予想済みの展開ではあったのだが。

 中学生の頃には無敵のように思えた手塚も、さすがにプロの世界となるとはじめからその名を世界中に馳せられるはずもなく、小さなトーナメントからツアーへの参加を繰り返していた。が、そこは類稀なる彼の実力、トーナメントを制覇する毎に力をつけた彼は、3シーズンも終わる頃には世界ランキングのトップクラスへと駆け上がっていた。
 世界にだって、彼は負けない。
 そして21歳の時に彼は世界を制し――その後プロの世界からふいと姿を消した。
 リョーマの方も中学を卒業してすぐに、高校に進学せずにプロ入りしていた。彼の実力も特出するものがあったが、とうとう手塚がいる世界では、彼を超える事ができなかった。

 手塚がいなくなって2年。リョーマは昨シーズン、グランドスラムを制覇した。

 最後まで手塚に敵わなかった事は、リョーマにとってはどうという問題でもない。ランキングではいつも手塚の一歩下に名を連ねていた彼だったが、その結果に疑問を抱いた事はない。いつだって全力で彼と対決していたのだから、悔いなど残ろう筈もない。
 公私を含めて、手塚とは何度試合をしたかわからない。トーナメントのみならずストリートまがいの試合も合わせれば、手塚とリョーマの勝敗結果は、まさしくかっきりとタイであった。そして完全に非公式の形をとった試合で手塚はリョーマを下し、一勝リードしたあとで彼はリョーマの前からも姿を消したのだ。
 悔しいといえば、その点だろう。
 まるで初めて試合をした時のような、誰もいない二人だけのコートの中。
 最後にリョーマを叩きのめした手塚の姿は悠然としていて、どこか誇らしげだった。

 だから、なんとなくわかった。
 これが、最後なんだと。

 あの時、なんとなくそんな気はしていた。
 その強さ故に、限界まで来ていた手塚の身体。悲鳴を上げ続けていた左肘に、いつも彼を見ていたリョーマが気付かないはずはない。どれほど至上の強さを求め続けても、身体組織は人間の限界を超える事はできない。
 早くに迎えた最後は、抜きんでた強さの代償なのだ。
 けれど。
 最後の最後で勝ち逃げるところが、どうしようもなく手塚らしい。
 彼は世界最強のまま、そこを去った。




 そうやって、世界中の目からその姿を隠すようになってから、手塚は時々リョーマに宛てて絵葉書を寄越すようになったのだ。プロになってからのリョーマの所在はほとんど不定の状態であったから、日本の自宅に届くその便りは、エージェントや肉親を通してリョーマへと届けられる。
 どこで何をしているのか、他から見てまったくわからない手塚の行方だったが、その絵葉書とそこに押されている消印で、彼が今どこにいるのか、リョーマだけは知っていた。
 一切、彼の言葉は記されていないけれど。
「ほんっとにさ。好き勝手に遊びまわってるよね、あの人も」
 引退してからの手塚は、世界中をうろついているようだった。実家のある日本に帰った事など、ほとんどと言って良い程ない。
 リョーマのもとへと届けられる各国からの葉書。時には南米から、スイスから。ノルウェーや中国なんてのもあった。手塚は毎回、その風景が如実に現されている絵葉書をわざわざ選んで送ってきているようだ。
 リハビリと称して、各地の山でも登っているに違いない。
 けれどどこで何をしていても、世界の舞台に立つリョーマの姿だけは、いつでも見ているのだろう。それだけは確かだった。
「おいリョーマ。葉書の裏見てみな」
「裏ァ?」
 不意の父親の言葉に、かの人の残像を思い巡らせていたリョーマは、ふと我に返って手にした絵葉書をひらりと返した。そこにはとても見慣れた、ラインの美しい山の写真。
「……富士山?」
 その姿も、美しい書体のロゴも。どう見ても、日本にあるそれだ。
「なに、あの人今、日本にいんの?」
「そういう事なんじゃねーかァ?」
「ふーん……」
 いまこの時に、日本国内から出された葉書。
「お見通し……って訳」
「そーだろうなァ」
 バシンと、南次郎はリョーマの背を叩いた。
「だから、俺達が見に来たんじゃねーか。せいぜい頑張んな」
「……」

 永かったね。
 いや、あっという間だったのかもしれない。
 中学を卒業してからここまで、ずっと遠くを目指して駆け上がってきた。それこそ休む間なんてない位に。
 手塚とは、何度も戦った。その為に、立ちはだかる人間もすべて倒してきた。楽な戦いなんてなかったけれど、ただひとつ目指す頂点に向かって、ただひたすら駆け上がって、一足先にそこに立った手塚の後を引き継ぐように、リョーマは今そこに立っている。
 手塚がリョーマの前から姿を消したのは、彼がリョーマの対戦相手ではなくなったからだ。戦うべき相手ではない自分は、今のリョーマには必要ではない。そう判断した。
 もともと、ひとりで歩いて行くべきこの道だ。
 手塚が成し遂げ、リョーマからも守り抜いたこの場所へと、リョーマが自ら駆け上がり、そうしたあとでまた手塚の許へと帰るようにと。

 本当にね。
 いつもいつまでも、お手々繋いでどこまでも、なんて。そんな約束をしなくて良かったよ。
 そうでなかったら今ごろ、ひとりの淋しさに耐えかねて、結婚でもしちゃってたかもね。

 手塚が世界を制した時、彼の傍らには絶対的なリョーマの存在があった。物理的に傍にいた訳ではない。むしろ、倒すべきライバルとしてラケットを振るっていたリョーマの存在。けれどそれがあったから。リョーマがいつもそこにいたから、手塚はそこまで辿り着いたのだ。
 リョーマが今ここにいるのも、同じように手塚の存在があったから、である。
 二人でひとつとなったあの時に、そう約束した通りに。
 寄り沿うふたつ、ではなく、ひとつであったから、ひとりでもここまで来る事ができた。
 ひとりで闘い抜く事が、楽しかった。
 ひとりの淋しさなんて、感じている暇もなかった。

「勝つよ……明日は」
 リョーマは微笑んだ。
 明日行なわれる決勝試合で、トーナメントの結果が決まる。その試合を観戦しに、南次郎達はわざわざ日本から家族揃ってやってきたのだ。
「ったりめーだ。負けたりしたらてめえ、家に入れねーぞ」
「別にいーよ。負けないから」
 リョーマは笑った。
「まァったくおめーは、ガキの頃からちっとも変わらねえ」
「そーでもないよ。色々ね」
 そんなリョーマに、南次郎は呆れたように笑う。
 南次郎の表情を受け、リョーマはフワリと後ろ頭で手を組みあわせた。
「さて、と。……んじゃま、油断せずに行こうか」




 表彰台の中央に立つリョーマの肘を、隣りに立つプレイヤーがつついた。
「参ったよ、リョーマ。今日こそは、イケルと思ったんだけどネ」
 リョーマに勝利を奪われた彼は、それでも満足げにニヤリと笑う。
「俺が譲る訳ないじゃん」
「ハハハ。本当にいつも余裕だね、君は」
 リョーマは彼を見る。
「アンタ、手塚さんと試合して一度も勝った事ないじゃん。俺がさ、そういうアンタに負ける訳ないでしょ」
「テヅカ? ああ、あの頃はね。彼はちょっと、倒せなかったな」
「今でも倒せないよ。多分ね。けどまあ、次からはさ。勝ちは好きなだけアンタにやるよ」
 リョーマの妙な言いまわしに、彼は大袈裟に目を見張ってみせる。
「へえ? 手でも抜いてくれるっていうのかい? いい性格してるね」
「まさか」
 肩をすくめてみせると、彼はふと、リョーマの方を見つめたまま瞳を細めた。
「……フットフォールト」
 その言葉に、リョーマは意外そうに彼の方へと顔を向ける。
「この前からそうだったけどさ。今日の試合でのフットフォールトが、数えて5回。リョーマらしくもないね」
「……」
「……脚かい?」
 リョーマは笑った。
「人の事、気にしてる場合じゃないよ。俺はもう、とっくに世界を制してるんだからね。アンタも自分の事、考えなきゃ」
 頂点ってのは、奪取するためにあるんだよ。そこを目指すために存在するもの。
 極めたらその後、守り続ける事に何の意味があるだろう。
 そう――頂点に立ったらあとは下り坂だと思われがちだが、蹴落とされるのを待つ必要はない。それも、あの人がその身をもって教えてくれた。
 世界の頂点。そう、そこから自ら飛び降りるのもいい。
 そうして駆け下りたその先の世界で、今度はゆっくり、歩み進んでいくのも道だろう。
 今までずっと、がむしゃらに駆け上がってきたのだから。

 岐路という言葉を意識した時に、ふと過去を振り返る事がある。純粋に楽しかったあの頃。今だって楽しいけれど、それとはまったく違う過ぎ去った時間を思い出してしまうのは、もう二度とそこに戻る事ができないと、知っているからだろう。
 いつでもいたね。そこに、あなたは。
 以前に、彼がそうしたいと言っていた通りに。リョーマが歩いてきた履歴には、必ず手塚の存在があった。手塚にとってのリョーマがそうであるように。
 生きて行くのに、復路なんて存在しない。
 あの頃に帰る事なんて、誰にだってできない。
 終わりまで続く片道を、ただ歩いて行かなければならないのだけれど。けれどもリョーマが帰り着くその場所は、振り返った過去の場所にではなく、いつでも歩いて行くその先にある。
「今から帰るよ――俺も」
 呟いたリョーマは、ヒョイと表彰台から飛び降りた。
 もうあの人は知っていて、だから日本に帰ってきたのだろう。

「勝ちは貰ったよ。これが――最後だからさ!」
 陽気に振り返り、リョーマは日本語で、そう言い放って駆け出したのだった。




 越前リョーマ、突然の引退。
 手塚に続く、リョーマの引退騒動にテニス界、ことに日本のマスコミは騒然となった。
 引退の理由は、身体の故障。
 手塚がそうであったように、リョーマの身体にも、それに耐え切れないだけの負担がかかり続けていたのだ。最近の試合でリョーマにフットフォールトが多発していたのも、これが原因だった。サーブ時の着地に失敗するという基本的なミスを連発するほどに、リョーマの脚には限界がきていた。
 手塚のプロデビューからリョーマの引退までを通して、近年稀に見る逸材の誕生と、その早すぎる消失に、本人達を差し置いて世の中だけが激しく騒ぎ立てた。この騒ぎが収まるまでには、まだかなりの時間を要するだろう。
 けれどもいつかは、それも鎮まって行く。




 極秘のまま日本に帰ってきたリョーマは、中学の頃によく立ち寄った小さな公園に佇んでいた。つい昨日までそこにいたような、けれど長い事忘れていたような気もする、あまりにも懐かしいその場所。
 誰もいないその場所に、静かな気配を感じて、リョーマはふと振り返った。

 手塚だった。

「……ホントにさ。待ち合わせてる訳でもないのに、よくよくあんたと俺って出会うよね」
 挨拶も無しに飛び出たリョーマの言葉に、手塚は肩をすくめた。
「会おうと思ったら、いつでも待ち合わせているようなものだろう」
 それもそうだと、思った。
 行動パターンが似ている上に、昔から偶然の神様に見初められているような二人だ。
「目指す場所に、ちゃんと立ったよ。見てたでしょ?」
「ああ」
 昨シーズンも、今シーズンも。限界を感じたリョーマが、誰かに叩き落とされるのを待たずにそこから駆け下りてきたのを、手塚はしっかりと見ていた。
 本当に、そんなところまで良く似ていると思いながら。
「ちゃんと見ていた。最後まで」
 公から姿を隠した手塚は、駆け下りてくるリョーマの姿を、ちゃんとその目に捕らえながら静かな日々を過ごしていた。リョーマの事を待っていた訳ではない。ただ、全力で走るのをやめただけだ。

 リョーマの肩が、フワリと暖かくなった。手塚の両手に包まれたからだ。
 ゆっくりと降りおりてきたそれを、リョーマは瞳を閉じて受けとめた。

 口唇に、あたたかな感触。

 静かに押し当てられるやわらかな口唇は、恋人が恋人に与えるようなそれではなく。
 人が、人にそうするように。
 優しさも、誓いも証も、すべて超えたものを享受し合うような初めての口接けを、リョーマは黙って、その口唇に感じ続けた。




 リョーマが取った己の手で、手塚は彼の両手を握り返す。
「不二が今度、テニススクールを開設するそうだ。俺とお前に、そこでテニスを教えてみないかと言っていたぞ」
 不意に出た話題に、リョーマはおかしそうに笑った。
「それ、俺も聞いたよ。でもさ、ここへきて周助に雇われるのってどうかな。ちょっと遠慮したいような気もするんだけど」
「いや、正確には経営するのは不二の姉貴だそうだ。今の段階では、不二も姉貴に雇われる身、という事らしいな」
 その辺も、不二の計算の内、といった感じだろう。どちらにしても元世界的プレイヤーの二人を抱き込もうというのだから、ちゃっかりしているというか何というか。
「でもね、青春台テニスクラブの方からも声かかってるよ。ほら、カチローの父さんがいたあそこ。今、人手不足なんだって」
 どこも必死に食いついてこようというのがありありと見えていて、おかしくなってしまう。いまこの場でその二人ががん首そろえていると知れれば、世の中は彼らを放ってはおかないだろう。
「どうしたい?」
「……さあね」
 これから二人で、テニス三昧の一生というのもいいだろう。それとも。
「なんだったら、二手に分かれてまた勝負でもしてみる? どっちが強いプレイヤーを育てられるか、とかさ」
 それも、いいかもしれない。
「薫ちゃん探し出して遊んであげるってのも、面白いかもしれないしね」
 リョーマの言葉には、さすがに手塚も一瞬苦しそうに頬を緩ませた。
 海堂は今、ストリートテニスで次々と相手を叩きのめしながら、時折ツアーにも参戦して世界中をまわっている。偶然アメリカかどこかで彼と会った時に、何気なく二人の様子を気にかけていたのを憶えている。
 今はどこで、ラケットを振るっているのだろうか。
「ゆっくり考えればいい。まだ、始まったばかりだ」
「それもそだね」
 ひとつの世界を超えた、次の世界は。
 もう見えているのだろう。きっと、すぐ目の前に。
 今まで全力で駆けてきた道を、今度はゆっくり、歩いてみよう。あなたとふたりで。

「ねえ、手塚さん」
 両の手を繋いだまま、リョーマは少しだけ差の縮まった瞳を見上げた。
 ぶつかり合う、まっすぐな視線。
「なんだ?」
「久しぶりだからさ、たまには確認しあっとこうよ」
「……」
 やれやれ、と、手塚はやわらかな息をついたが。それでも、微笑んだ。
「あんたは俺を」
「ああ」
「俺はあんたを」
「ああ」
「世界中の誰よりも、何よりも!」
「そうだ」

 ――愛してる。

 二人の囁きは、同時にお互いの胸の内へと、ゆるやかに融け込んでいった。

 愛してるよ。
 この世に存在するすべてを超えて。
 出会う事のできた、たったひとりの人。
 そう。誰よりも、何よりも。




 最高に愛している、あなたが私の――『TOP OF THE WORLD』。




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●あとがき●
『TOP OF THE WORLD』。テニスの事ではなくて、あなたの事だったんです(笑)。
ともあれ、またまたお疲れ様でした。アフターエピソードのような最終回までオツキアイ下さって、本当にありがとうございます。
うーん、本当は今回のサブタイトル、ROADというよりはWAYの方が意味合い的には正しいんですけどね、語呂的にこちらの方が好きなので(苦笑)見逃して下さいな。
ちなみにこのお話は、特に最終回は、本気でフィクションですので! ここにあるどんなエピソードも、笑って許して下さいませ(笑)。いや〜、いくらなんでもテニプリメンバーってテニスの腕が常識はずれなんで、世界ランキングとかその辺に関しては、深いツッコミは勘弁して下さいねー。計算できっこないですよ、本当に〜〜。
ともあれ、ご期待通りかそうでないかは微妙なラインですが、これにて完結でございます。どうか苦情は、おてやわらかに(おい)!
またお会いしましょうね〜〜〜!



TOP OF THE WORLD