UP20020227
TOP OF THE WORLD ― 6 Forget-me-not
まるで、恋をしているみたいだね。 そんな風に言うあの人を、一瞬殴り倒しそうになってしまったけど。 「こっちの身が危ないって……」 リョーマは呟いた。 不二に訳のわからない事を言われたと手塚は言っていたが、リョーマが出会い頭に不二に言われたのは、あからさまにはっきりとしすぎている一言だった。 「恋って何……」 もっとも、言っている事ははっきりしているが、その真意が伝わってこないから、わからないという点は一緒だ。 「うん、見たままの印象を言ってみただけ」 「いつでも相手のそばには自分がいて」 「それはとても恋に似ていてね」 「でも本当は」 「でも本当は、何だってゆーの」 苛つきと共に、リョーマは数冊の本をドサリとテーブルの上に置いた。今日は図書委員の当番日で、のんびり昼食を摂っている暇がなかったから尚更機嫌が悪い。 最近妙な視線を向けてきているとは思っていたが、あの笑顔が怪しい先輩は、一体二人にどうさせたいというのだろう。手塚にちょっかいをかけていたと思ったら、今度はリョーマを相手に、である。 「一生の内に滅多にないチャンスなんだよ。それを逃して欲しくないだけ」 彼は、それだけを言ってリョーマの傍を離れた。一体どういう事なのか、彼が何を確信しているのか、聞き返せる雰囲気でもなかった。 確かに二人は、最近迷う事が多くなっていた。何にかといえば、そのものズバリ、二人の関係について、だ。 常識的に考えて、手塚とリョーマはテニス部の先輩と後輩だ。これは変わりようのない事実。では他の先輩後輩とまったく同じなのか、と問われれば、この点について二人は同じように悩んでしまう。自分にとって相手がどこか、他の人間と違う存在であるのは確かだったから。 「部長にとって、俺って何?」 「お前にとって、俺は何だ」 そして自分にとって、彼は。 まるで恋をしているみたいだ、と不二は言った。とすれば、海堂がリョーマに対して言ったあの言葉も、やはり彼から見てそんな風に見えていたという事なのかもしれない。彼のリョーマに対する言葉はどこか、まるで恋敵でも牽制するかのような響きを持っていた。彼が手塚の事を尊敬し、純粋に憧れている故だろうかと考えもしたが。けれど、海堂の言葉に含まれていたのは、そういう事だけではないようにも思う。不二にしたって、本当はそうではない、というような事をにおわせていたし。 それを、自分達で見つけて欲しい、という事なのだろうか。 早く気付きなよ。 付き合い方を考えろ。 だけどそんなのは、余計なお世話だ。 そうでなくとも、二人は今自分の気持ちが見えなくて迷っているのだ。どうせちょっかいをかけるなら、結果から先にズバリ教えて欲しいものだ。それでは意味がない、と不二は言うけれど。 「おもしろがってるだけで、不親切だよネ」 憮然としながら、リョーマはひとり、本の整理にかかる。 バサリ。 勢いに任せていたせいで、一冊の本を取り落とした。 「と……」 それを拾い上げてみてみると、それは小さな平綴じの本だったが、コート紙のカバーがついているものだった。痛んでいたらまずい。 「大丈夫かな、と……?」 その本の表紙を見てみれば、タイトル書きで「野生の花々・高山植物」と記されている。 「部長が好きそうな本……」 思わず呟く。 最初こそ意外だったという記憶があるが、手塚の趣味がアウトドアに傾倒している事をリョーマはもう知っている。釣りだのハイキングだのが好きだというのは、まあ合うような、そうでもないような。 もっとも、彼ならこういう本は自分で所持しているだろうな、と思いながら貸し出しカードをめくってみると。 そこに打ち込まれているIDの先には『手塚国光』という名前。 「ホントに借りてるよ……」 こういった本は実用的な学習に役立つものでもないし、娯楽要素も少ない。あまり人気のある本でもないのか、手塚が二年生の時に持ち出した後は、数人分の名前しかない。 パラリと、中盤のページが開いた。誰かがしおり代わりにメモ用紙を挟んでそのままにしていたらしい。 「わす……れ、なぐさ? ああ、Forget-me-notね」 勿忘草。 リョーマにわかる言葉で言えば、Forget-me-not。何とはなしに、その言葉をさらりと挟まれたメモ用紙に書き移してみる。 紹介してある植物ごとに、小さなカラー写真と俗名、学名、花言葉や簡単な紹介のようなものが記載されている。あまり専門的ではなく、誰でも手軽に参照できるような内容だ。 「花言葉は……『私を忘れないで』?」 勿忘草の花言葉。 そして紹介記事の部分には、その花言葉の由来が記されていた。 どの花にもそれなりに花言葉があるものだが、勿忘草の花言葉はその伝説に由来しているものだから、時々そのあたりの記事が載せられていたりする。 崖下に咲いている勿忘草を恋人のために摘もうとした青年が、足を踏み外して転落してしまう。命を落とす間際に彼が恋人に残したのが「私を忘れないで」という言葉だった。それが花言葉として残っているのだという。 これが不二の言うような『恋』というものなのだろうか。 こう言ってはなんだが、ここにある恋人同士の伝説は、リョーマにしてみれば押し付けがましい事この上ない。 「いいメーワクなだけだと思うけど……」 自分のミスで命を落としておいて、死ぬ間際に自分の事を忘れないで、だなんて、それでは残された方はどうしたらいいというのだ。自分のために恋人が死んでしまった事を悔やみながら。あるいは、愛する人を忘れられないまま、独りきりで永い時を? あまり、伝説として残るほど美しい話であるとも、思えない。 そういうのが人を愛するという事なのだろうか、とリョーマは思う。 ――いくらなんでもそれは極論というものだが。 リョーマには経験のない事であるから、恋などと呼ばれるものがどういうものなのか、予想もつかない。けれど少なくとも、自分は手塚のために、この花言葉の伝説のような自己犠牲の精神を持っている訳ではないと思う。 もっと、違う何か。 「――返却だ」 パタリと目の前に本を置かれて、リョーマは我に返った。 「あ、部長」 「何をぼんやりしている。ちゃんと昼飯は食べたのか」 いつの間にか目の前に立っていたのは、手塚と大石だった。 「ちゃんと食べたっスよ」 「越前、そういえば今日当番だったんだな。じゃあ放課後もか」 無表情な手塚のとなりでにこやかに言う大石に、リョーマは無言で頷く。このせいで多少部活に遅れる事になるから、当番の日は事前に申告してある。 返却処理をした本を、大石は再びヒョイと持った。 「じゃあ、これ返してくるよ」 「ドモ」 図書室の本の扱いに関してはセルフサービスであるから、別に礼を言う筋合いでもないような気もするが、何となく頭を下げてしまうリョーマ。 リョーマが図書委員の当番の時には、必ずと言って良いほど手塚は図書室を訪れる。もっとも、彼と一緒に来る事の多い大石や不二と合わせると結構な利用回数になっているらしいから、別に狙って来ているという訳でもないのだろう。 大石がその場を離れて、手塚とリョーマだけが残された。 「部長、この本借りた事あるんスか? こういう本、自分では持ってないの?」 リョーマは、手許の本をズイと手塚の目前に示してみせた。 「ああ……前に一度な。このテの本を持っていない訳じゃない。一口に植物の本といっても、載っている種類には結構バラつきがあるから、それでこの本を借りたんだ」 ふーん、と、リョーマは曖昧に相槌をうってみせる。どの世界も、それぞれに奥の深いものらしい。 「……Forget-me-not? ああ、勿忘草か」 手塚が呟く。リョーマの走り書きを見たのだ。 「ん、ちょっと、これ読んでたんで」 リョーマは、先程まで読んでいたページを手塚の方へと向けた。 指し示された項を目にして、一瞬眉をひそめる手塚。 「……部長だったら、どう思うの?」 「……」 何となく聞いてみたくてそんな事を口走ったリョーマだが、不意にこちらに視線を向けた手塚に、思わずドキリとしてしまう。 手塚と真正面から向かい合って言葉を交わす事は、あまりない。部活動での指示事項の伝達の時にはこんな風に話す事もあるが、それ以外では大抵、リョーマは手塚の横顔と話していたような気がする。 パタリと、手塚は本を閉じた。 「どんな状況であれ、もしもそれが唯一無二の存在であるなら、別に頼まれなくても忘れる事などできないだろう」 手塚の、その言葉とまっすぐな視線に、リョーマは目を見張った。 今、どんな事を、言ったの? 「――これが俺なら、御免被るが」 それは。 ……それは、どちらを? 残して行く方を? それとも、残される方を? あるいは、そのどちらも。 「そういう人が、部長には……いるの」 「……」 サラリと出てしまったリョーマの言葉には、手塚は反応を返さない。視線も、もう逸らされていた。 不二に何事か言われてから手塚が変わったという事はないが、今の手塚は、何か変だ。何事かの含みを抱え込んでいるように、リョーマには見える。 ――不二先輩も海堂先輩もわかんないのに、あんたまでわかんなくなってどうすんだよ。 リョーマはふと、妙な不安に駆られる。 もともとわかりにくい人物ではあったが、そういうのとはちょっと違う。まるでリョーマに対して何か隠し事をしているか、もしくは言いあぐねている事でもあるかのようだ。 けれど、そうだ。 不安に駆られるのは、自分にも迷いがあるからだ。 どうしてこんな風に迷ったり不安になったりしながら、自分の位置を決めていかなければならないんだろう。 どうして今あるがままじゃ、いけないんだろう。 誰に何を言われた事よりも、何よりも、自分が。 一番答えを欲しているのは、一体どうしたいのだと自分に問い質したいのは。誰でもない当事者である二人、なのだ。 リョーマは高いトスを上げる。 それを打ち込む時も、返されたボールに飛びついて行く時も。そこにはいつも、手塚の姿が在る。纏わりつく雑念としてではない。とても自然な形で、リョーマはいつもそこに手塚を感じるのだ。これがどんな事なのかわからない。でも今それを感じている自分は、とても自然な姿であって。 だから本当は、こんな風に考えあぐねたりしたくないのに。 手塚は最近、ほんの少しの先を見る。 今、いつも近くにいるリョーマだが、そう遠くない未来に自分が駆け上がっていくべきその道を意識した時、そしてその先を見据えた時に、彼は、そこにもいるのだ。 だから。だから――。 どうしたいとか、どうすればいい、という事でなくて。 本当はもう、手塚には見えている。 当然のように目の前に広がる――とても大切な事が。 彼らが見つけかけている答え、その中に――二人はもう、踏み込んでいるのだ。 |