UP20020211

TOP OF THE WORLD  ― 4 『ひと』という文字のかたち





「じゃあ、明日は委員会なんだね」
 不二の言葉に、手塚は頷いた。
「少し遅れるが、顔は出せるはずだ」
「色々忙しくて大変だね」
 おざなりではあるが一応の労いの言葉に、手塚は僅かに肩をすくめてみせる。別段問題はない、といった意思表示だ。
 面白いな、と不二は思う。
 その知名度からテニス部のみならず、青学全体のカリスマと言って良い手塚がやらなければならない事は、常に山積している。ここへ来て、そのスケジュールは通常から考えて結構シャレにならないところまで来ているような気がするのだが。
 それでも、何だか――手塚が楽しそうに見えるのだ。
 これまでと比べて何かが変わった訳ではない。あくまで感情の起伏が目に見えにくい男であるのに変わりはないし、仕草や言動に変化が生じた訳ではない。けれど、彼が纏う雰囲気のようなものが微妙に変わったよう感じるのは、多分気のせいではない。いつも手塚の傍にいる大石あたりなら、同様にその事に気付いているんだろうな、と不二は思った。
 ただ――。
 妙に楽しそうに見えるその半面、そのずっと奥で揺れ動く何かが、今の手塚にはある。
 まるで、何かに迷っているような?
 そう表現してしまうと、何か違うような気がする。けれど、具体的にじゃあどういう具合にか、というところまでは、さすがの不二も読み取れない。何かを模索しているような、とでも表現すれば良いのだろうか。

 その原因が何なのか、というところは――わかっているけれど。

 また……見てるね。
 コートの肩隅で、不二は手塚の視線の先を追った。
 そこには、ラケットを振りながら桃城と何事かを話し込んでいるリョーマの姿。いつもの如くまた何をもめているのか、桃城がブンブンとラケットを振り回しながら何事かを言っているのに対し、リョーマはあくまで斜に構えながらその手許を指差し何か呟いている。フォームや攻め方の論議でもしているのだろうか。よりにもよって完全に確固たる独自のスタイルを持っている者同士が論じ合ったところで、喧嘩にしかならないだろうに。決して、それは悪い傾向ではないが。
 一瞬、リョーマの視線がこちらに向けられた。
 ホンの2秒ほどこちらを見ていたかと思うと、ヒョイと視線を戻してまた桃城との話に戻っている。「やっぱりこっちのでいいんスよ」などという声が聞こえた。
 へえ……。
 リョーマは一瞬、こちらを見ただけだった。その視線は、間違いなく手塚に向けられたもので。対する手塚はその僅かな時間、一切表情も変えていないし、何事かの振る舞いを見せた訳ではない。ただリョーマの方を見つめていただけ。なのだけれど。
 凄いなあ。目と目で会話しちゃってるよ、この人達。
 その光景に、妙な感動を覚えてしまう不二。
 彼も手塚も変わった。とても良く似た方向に。
「楽しそうだね」
 唐突な言葉に、手塚は不二の方へと向き直った。
「楽しそう?」
「うん。楽しそう。ずっと一緒にいたけど、今みたいな手塚は初めて見るような気がするよ。随分変わったよね、ここ最近で」
「……」
 今イチ言われている事が分らないのか、手塚はあくまで無表情のままで不二を凝視する。
「越前君と、何かあったの?」
 核心を突く不二の言葉だったが。
「何故そこで越前の名が出る」
 手塚が返したのは、そんな言葉。ごまかしている訳ではなくて、本気でわかっていないのだろう。けれど、自分が変わったという点は本人だって気付いているはずだ。
「自覚してない訳じゃないんでしょ? 越前君が入学してきてから、手塚変わったよ。前よりも、少し余裕が出てきたのかな」
 その立場を脅かすような実力の持ち主が現れた時、大抵の人間はその存在に危機感を覚えてそれがプレッシャーになったりするものだが、手塚の場合はその危機感が逆の方向に作用しているように見える。
「それを言うなら、俺だけじゃないだろう」
 そう手塚は呟いたが。確かにそれは彼の言う通りだ。
 リョーマが現れた事で、青学テニス部の面々はそれぞれの形で奮起した。彼に負けた者も、いまだ彼を遠くから見つめているだけの者も、そして――彼に勝った者も。
 誰も怖じ気づいたり、屈したりする事なく。追いつけ追い越せ追いつかせるな、と、皆それぞれが、自分の思うままにその実力を伸ばしている。そしてリョーマが関わっている部分以外でも、それぞれの人間が共に影響し合うようになってきた。そこに生まれたのは、馴れ合うだけではない理想的な連帯感。もともとそれがなかった訳ではないが、リョーマの出現により、その繋がりがより強固になったのは確かだ。
「うん。確かにみんな変わったよね。僕も含めて。でも僕が凄いと思うのはね。『君が』変わったって事なんだよ」
 ――本当に、そこのとこには気付いてないんだね。
 自分が変わったという点は自覚しているのだろうが、それがどれほどに凄い事であるかという点を、手塚はわかっていない。
 不二の憶えている限り、今までそんな事は一度もなかった。手塚が誰かの影響を受けるなどという事は、ただの一度も。彼の才能は完璧なもので、だからこそ、誰かの影響を受けたり、何かに振り回されたり、そんな光景にはお目にかかった事がない。
 そしてそんな完全な形を崩す事のなかった彼は、いつも孤高を保ってそこに在った。
 本当の意味でひとりだった訳ではない。いくら手塚でも、本当にひとりきりでここまで這い上がってきた訳ではない。それはわかっている。けれど並外れた手塚の実力が、彼をある意味ひとりにさせた。近寄り難いその性格も手伝っていたのだろうが、彼のいる場所までの追尾を誰にも許さず、だから誰が手を伸ばす事もなく。

 そこに、降ってわいたように現れた、ひとりの後輩。

 ひとりで駆け上がってきた手塚がその事に気付く前に、リョーマが手塚の立つその空間の、見えない壁を叩いた。その手が強固な枷に触れ、手塚の周りに小さな空間を作ったのだ。無理矢理に入口をこじ開けて侵入してきたリョーマに、手塚はあっさりと居場所を作った。たったひとりの例外を招き入れたランキング戦が、それを物語っている。
 そうか、と不二は思う。
 今手塚と話していて、ようやく不二にも合点がいった。手塚の奥で揺れていたのは、この事に関する戸惑いなのだろう。リョーマが入り込んでくるまで、自分がそこにひとりでいるという事にすら気付いていなかった。そしてそうやってリョーマがこじ開けたその空間が何なのか、それは何のためのものなのか。それがわからないから、手塚は。
「戸惑ってるんだねェ」
「なんだと……?」
「そうなんでしょ?」
 ひしめく大衆の中で、本当は自分がひとりで歩き続けているという事。そんな事は、普通誰だって気付かない。手塚の場合は、リョーマが自分の傍らに近寄ってきた事で、否応無しにその事に気付かされたに過ぎない。それだって未だにひどく曖昧なもので。
 自分が立っている場所の空気が、他の存在によって揺らめきはじめた事に、手塚は戸惑いを覚えていたのだ。
 他の誰でも、きっと手塚はそんな風にはならなかった。それは、リョーマだからこそ出来た事なのだと不二は思う。

 手塚とリョーマ。

 ねえ、手塚。君はまだ気付いていないんだろうけど。
 多分誰も、そうそうに気付く事じゃないと思うけど。でもね、それに気付いた人に、そして運良く『それ』に巡り会えた人にだけ与えられる特権が、あると思うんだよ。本当は誰もがそうやって生きていけるはずなのに、実際はどうにも難しい、そんな生き方が。

 そんな事を考えた不二自身、今までそれを意識した事などなかったのだが。
 手塚とリョーマを見ているうちに気付いた、というのが正しいところかもしれない。
「ねえ手塚、結構好きだよね?」
「……何がだ?」
 不二の話題の転換について行けなくて、手塚は聞き返した。
「越前君」
「……」
 いくらなんでも唐突すぎないだろうか。どうしてこうも、リョーマと自分の事に関して不二が絡んでくるのかが手塚にはわからない。そして、不二の問う事の答えも。
「そんな事を聞いてどうする」
「単なる興味本位。手塚だって越前君の事は特別だって、自分でも気付いてるんでしょ?」
「……」
 どうやら不二には見透かされているらしい。隠している訳ではないから、それも当然の事かもしれないが。
「好きか嫌いかと聞かれれば、別に嫌いじゃない」
 それが手塚にとっては本当のところだ。どちらか、と聞かれれば、そういう事になる。
 しかし『嫌いじゃない』がイコールで『好き』に繋がる訳ではない。好きとか嫌いとかいう言葉で考えた事などないのだ。わかろう筈もない。
 不二はそんな手塚に、思わず笑みをこぼしてしまう。
「そうだねえ。特別って事がすべて好きとかいう言葉に繋がる訳じゃないもんね。じゃあ手塚はどんな風に、越前君の事を特別と思ってるのかな」
 にこやかな不二に対して、手塚は顔をしかめる。
「それがわかれば、苦労はない」
 そんな手塚の言葉に不二は声をたてて笑いそうになってしまうが、それはかろうじて耐えた。
 それがわからなくて、苦労しているという訳なんだね。
「早く気付きなよ」
「何にだ」
「さあ?」
 僕が言っちゃったら、意味がないし。
 そう心の中で呟いた不二は、ただ曖昧に微笑むだけだった。




「俺ら何か、スゲエ話立ち聞きしてたんじゃねーか……」
 ぼんやりとしゃがんだまま、2年の荒井が渋い表情で呟いた。先程の不二と手塚の会話の事を指して言っているらしい。
「……」
 その隣で金網に寄り掛かっているのは、レギュラーである海堂。別に海堂は荒井とツルんでその場にいた訳ではない。ナチュラルに在籍人数の多いテニス部の事、偶然近所に立っていたというだけだ。更に言うなら、ふたりは立ち聞きをしたくてしていた訳ではない。たまたま不二と手塚のそばで休憩をとっていたというだけで、その事に他意はまったくない。しかしはじめられた会話に聞き耳を立てていたというのは事実であったから、その事がほんの少し後ろめたかったのだ。
「部長にとって、越前が特別ね……わかんねーでもねェけど」
 荒井自身、リョーマにこてんぱんに叩かれた経験者だ。その横柄さに立腹するも、実力的に自分が彼に敵わないのは、嫌という程自覚している。けれど悔しさはどんなに募っても、彼相手に萎縮してしまうような事は一度もなかった。リョーマの傍若無人な性格が、荒井にそうさせていたのかもしれないが。
 彼を目標に、などと殊勝な事を考えていた訳ではないが、いつか彼をほんの少しでも見返してやれればちょっとラッキー、程度の野望は荒井にもある。みんなが変わった、と不二が言ったのは、こういう事だろう。
「どんな特別かってのは、ちょっと興味ねえ?」
 荒井が言ったそんな一言に、話を振られた海堂はじろりとその顔を睨みつけた。
「カンケーねェ」
 それだけを言い捨てて、海堂はフェンスから背中を離した。カシャン、という微かな音。
 相変わらずノリわりー奴、という荒井の言葉にも頓着せずに、海堂はそのままその場を離れた。




 手塚。こじ付けっぽいかもしれないけど、面白い話を聞いた事があるよ。
 『ひとり』って言葉はね――『一人』じゃなくて『ひとり』ってひらがなで書くのが正しいんだって。なんでかっていうとね、『ひと』って文字は、ひとりとひとりが寄り掛かり合って、支えあって『人』って漢字になるから、ひとりきりでは人という文字が成り立たないからなんだって。
 本当は、ひとりでは『人』にはなれないのかな。
 じゃあ僕らは……君は――どうやって、人になっていくんだろうね――。




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