UP20020205
TOP OF THE WORLD ― 3 子供たちの庭
「帰らないのか」 手塚は言った。 「少し、打っていくっス」 リョーマは答える。 手塚とラケットを交えたその日、リョーマの中に何かが生まれた。 いや、正確には『生まれた』のではない。リョーマの中にあった、ずっと目覚めるのを待っていたものが、形となって現れたのだ。 一生を左右する瞬間、それに直面した人間が、その時その場でそれに気付く事は、まずない。大抵は随分後になってから「ああ、あの時だったな」と省みることになる。一生わからないままで終わる事だってあるかもしれない。 けれど例えば気付いていなくとも、リョーマにとって、その瞬間は確かにあった。 手塚によってもたらされたその時間に。 そしてそれは手塚にとっても同様の、これからを決定付ける瞬間だった。 己の姿を黙って目で追っていた手塚の行動を、リョーマは今になって理解した。自分がまったく同じ事をしているからだ。 年齢も常識も、リョーマの想像も凌駕する手塚の実力。微妙に追いつけそうな感じがするのに、実際は何をやっても敵わない。やっと一歩近付こうとすれば、手塚はまた一歩距離を開けるのだ。それは、手塚もまた完成形ではなくて発展しているという何よりの証拠。 信じ難い脅威。 悔しくて腹立たしくて、夢にまで見る。 そんな風に手塚の事を視線で追いながら、しかしリョーマはいつも、我知らず微笑んでいた。多分何よりも、嬉しかったのだ。 誰よりも倒したいと思っていた相手――父親である南次郎に対するのとは決定的に違うこの感情。これをなんと呼ぶのかは判らない。父が相手である場合、奴をねじ伏せるためなら手段を選んだりはしないだろう。とにかく一泡吹かせられるのなら、何だって良かった。たまたまそれがテニスだったというだけだ。だから、それだけを目標としていたから、例えばテニスでプロになろうとか、そんな事は微塵も考えていなかった。 テニスにそれ以上の価値なんて見出してはいなかったのに。 追い打ちのように、手塚は言った。強い奴などいくらでもいると。今、目の前に立つ彼よりも? 強い奴が本当に? 知らず心が震えて、目の前に鮮やかな色彩が生まれた。 これまでの世界観が崩れ去った訳ではない。 手塚との試合で変わった事があるとするなら、そこに『付加価値』がついたという点だ。 教えられたのは、向かい風すら心地良いと感じるような、情熱。 そして――テニスが楽しいものなのだという事。 曜日に関係なく、日々厳しい練習が繰り広げられている青学テニス部にとっては数少ない休日の日曜日、手塚は珍しく丸一日を自分ひとりの時間に当てていた。 そういったオフの日ですら何かと部活動の事で身体を動かしていることの多かった彼だが、さすがに最近は頭の中が煮えてきた。たまには別の刺激を与えて気分の転換をしないと、さすがの手塚も息切れしてしまう。 いくつか電車を乗り継いで降り立った駅は、普段の喧騒をすっかりと忘れさせるような静けさを保っていた。人がまるで存在しないという程に寂しい訳ではないが、そこを行き交う人々の密度は、普段手塚が身を置いている環境とは明らかに違う。 改札を抜けようとして、側方に佇む小さな影が視界の端に留まった。 「……!!」 そこにいたのはテニス部の後輩、越前リョーマ。 「コンチハ」 まるでいつもと変わらない様子で小首をかしげるリョーマ。 なぜ。どうしてここにいる。 手塚はただ、呆然と立ち尽くす事しか出来ない。 「奇遇っスね」 奇遇? 奇遇なのか? 「なんて、ウソ」 「……」 「ホントは尾けてきたんだけど」 「……」 「駅で見掛けたのは偶然っスよ。もっと近場に出掛けるのかと思ってたんだけど」 今日、リョーマは家でゲームに没頭してるところを無理矢理、父、南次郎に外へと叩き出された。いい若いモンが家でゴロゴロしてるんじゃない、というのが彼の弁だったが、リョーマがやりはじめていたのは新作のゲームだったのだ。きっと南次郎は今ごろ、そのゲームにかぶりつきになっているのだろう。絶対に、その為に息子を追い出したのに違いない。こっちはたまの休みだっていうのに。 仕方が無いから、リョーマは目的も無いままに街中をブラブラしていた。 思えば、以前手塚に偶然会った時もこんな風に適当に遠出なんかしてたんだっけ、などと思い返してみたりしたが、さすがにそこで再び手塚の姿を見つけた時は、本当に心底驚いた。こういう偶然がそう何度もあるものなのだろうかと。何か、妙な縁でもあるのかもしれない、けれど。 言い訳めいているかもしれないが、何も目的も無く尾行していた訳ではない。ただ、もしも手塚がどこかのテニスコートにでも出掛けてひとりで打つ気でいるのなら、偶然を装ってその場に現われ、リベンジできればこれ幸い、くらいには考えていた。 ところが手塚は、変なところで乗り継ぎを繰り返し、一向に目的地に辿り着く気配が無い。一体どこまで行くつもりなのだろうと、自分の帰りの運賃が心配になってきたあたりでようやく電車を降りた、という訳だ。地名に明るくないリョーマにはここがどこなのかはわからないが、少なくとも都内ではなさそうだ。 「……呆れたな」 手塚は据わった目をリョーマに向ける。くだらない動機で無茶な事をする後輩に、心底呆れ返っていたのだ。 「しょーがないでしょ。オトナな部長と違って俺はガキだからね。見境がないんス」 見境がないにも程があろうというものだが、今日のリョーマの行動は自分でも説明のつかないものだから、本人にも上手く説明できない。自分でも意味不明な衝動に駆られて、それが素直に行動に出てしまっただけだ。もともと、地名も知らないような場所を暇に任せてうろつくのには慣れている。 リョーマの言葉に、手塚はふいと目を逸らした。 「別に俺は大人じゃない。お前と二学年しか変わらん」 「ウソばっか」 この場合、学年の問題でもないような気がする。 「本当だ。身内には、小難しいガキだと言われるがな」 静かな手塚の言葉に、リョーマは目を見開いてしまう。そりゃあ、実際の年齢で言えば手塚だって誰が見ても文句のない子供と言ってもいいだろう。しかし、リョーマが言ったのはそういう事ではない。大人の中に混じっても引けを取らない、手塚の持つ独特の雰囲気の事をそう称したのだ。 はっきり言ってしまえば、とても中学生には見えない。 それでも、手塚のまわりの人間から見れば、彼ですらまだ子供だと言うのだろうか。 「確かに俺は、外で知り合いの姿を見掛けたからといって、のこのこと後をついて行ったりはしないがな」 悪かったね、とリョーマは思う。 「大体、これがテニスをする格好に見えるのか」 そう言う手塚の格好自体は、動きやすそうなカジュアルな軽装。これからスポーツウェアに着替えると言われれば、それで納得できるだろう。が、その肩から下げているのは、かなり大きなショルダーバッグだが、とてもテニスラケットが入っているようには見えなかった。もちろんリョーマもそういうつもりで家を出てきた訳ではないから、自分のラケットなど持ってはいない。実際、ラケットなどはすぐに借りられるから問題はないのだが、手塚が言いたいのはそういう事ではないだろう。 「仕方ないでしょ。手荷物までチェックしてる余裕なんてなかったし。ていうか、一体何しにこんなとこまで来たんスか」 山の中という程ではないが、明らかに都会とは違う郊外。妙に自然も豊かだ。 「……釣りだ」 「…………釣り?」 「そうだ」 ――釣り。 ……意外だ。 そんな趣味があるとは知らなかった。学年が違うせいもあるかもしれないが、リョーマから見た手塚というのは、テニスとか勉強とか書類整理だけやっているように映っていたのに。考えてみれば当然のことかもしれないが、ちょっと思い付かなかった。何というか、思っていたよりもアウトドア派だ。 そんな事を考えていたら、手塚はクルリとリョーマに背を向けた。 「……来るのか?」 後ろ姿からの問い。 「行くっス。このままトンボ帰りしたんじゃバカみたいだし」 そんなリョーマの言葉にも返事を返さなかった手塚だが、清算を済ませているリョーマを一応足を止めて待っているあたり、少なくとも不愉快には思っていないのだろう。そんな風に判断してトコトコと手塚の後ろをついて歩きながら、しかしリョーマは内心で溜息をついていた。 ――ナニやってんだろうね、俺……。 バスに乗って、それから更に歩いて、やっと辿り着いた場所は、本当に何もない場所だった。道の両側を囲むような雑木林の中にひっそりと佇む沼。沼というか、何だか貯水池にも見えるような微妙な雰囲気で、本当にこんな処で何かが釣れるのか謎だ。 歩きながら手塚が言っていた言葉を思い出す。 ――言っておくが、何の面白味もない場所だぞ。 なるほど、と思う。 手塚にしてみれば、大漁を望んで今日ここに来た訳ではない。獲物を持ち帰る気もなかったから、それ用のボックスも持参していない。ただ、こういう場所でぼんやりと過ごして、雑念を掃除したかっただけなのだ。そういう意味で、ここは手塚にとっての穴場なのである。もっとも、まったく魚が釣れない場所でもないのだが。 水辺に舗装されている場所がない訳ではないが、手塚はあえて手の加えられていない雑木林の合間に陣取って竿を組みはじめた。本当にとりあえずといった体の道具類だが、自家用車で来るような装備には出来ないから仕方がない。 「部長……ムシがいっぱい」 手塚の道具箱を覗き込んだリョーマが、透明な袋にギュウギュウに詰まったそれを見て顔をしかめた。 「樹脂で出来たイミテーションだ。むやみに触るな。手が汚れる」 「他のは触ってもいい?」 必要なものは手許においてしまったから、手塚は頷いた。中には釣り針の類やナイフも入っているが、それで怪我をするほど間抜けでもないだろう。 適当なポイントに釣り糸を放ってから何気にリョーマの方に視線を向けてみれば、彼は色とりどりのルアーや浮きが気に入ったらしく、それを並べて遊んでいる。手塚の事もお構いナシといった感じだ。 ――不思議だ。 独りになるために来たこの空間に、イレギュラーで入り込んできたリョーマの存在が少しも気にならない事に、手塚は驚いていた。 少々テニスから離れようと考えていたのに、この後輩と顔を合わせていてはそれもかなわないだろうと思っていた。つい先程までは。けれどリョーマは、意外なほどにこの空間に馴染んでいる。そう思えるのは、手塚がここに彼の存在を許しているからだ。 「部長って、意外と面白いコト知ってるっスね」 リョーマが不意に、しゃがんだままの姿勢で手塚を見上げた。 「面白い事?」 「そう。こういう事とか、テニスとか」 「……」 こういう事――つまり釣りの事であるとか、そういう事を言いたいならわかるが、テニスというのはどういう意味だろう、と手塚は思う。別に今更、意外でも何でもない筈だ。 「俺ね、部長と試合してから、これでも色々考えるようになったっスよ」 このままじゃ駄目だと思った。もっともっと強くならなければ駄目だと。その為にはどうすればいいのか、と。けれどその反面、テニスというものをこんなにも楽しいものだと認識したのも、手塚と試合をしてからだ。 楽しい。 牙を剥くようにしてかかってくる相手を倒して力をつけて行く事が、こんなにも自分に戦慄を覚えさせるものだなんて知らなかった。 ワクワクするし、ゾクゾクする。 こんな感覚は、今まで感じた事がなかった。 「……」 リョーマの言葉に、手塚は黙って静かな水面を見つめた。 「それは何よりだが、一応白状するなら、俺も変わった部分がある」 「変わった?」 手塚はずっと、リョーマを見つめていた。 彼を知ってから今まで、ずっとリョーマの事を見ていて気付いた事がある。 リョーマはいつでもがむしゃらだった。これまでの経験も、その身に降りかかる状況の変化も素直に受け止めて、縦横無尽に駆け回りながらそれらすべてを余す事なく内包して、上へと伸びて行く。自分との試合でリョーマが微妙に変わったのも手塚は知っていたが、それでも彼の自由な様は――そこだけはまったく変わる事がなかった。 だから、気付いた。 結局、遊びなんだと。 適当にこなすとか、そういった悪い意味ではない。 周りからどういう風に見られようが、どんなに常人離れしていようが、リョーマも手塚も、同じ中学生で子供なのだ。ここで釣りに興じるのもテニスをするのも、本質はまったく同じ事。 時間を割き、身体を張った――本気の遊び。 たとえ全国を股にかけた大会でも、それは子供たちが駆け回る広い庭、つまり遊び場のひとつにすぎないのだ。 だからもっと、純粋に真剣であればいいと。 無意味な打算は何も要らない。いやなら辞めればいい。けれどそれが好きで必要だから、本気になるのだ。熱くなるのに、何の遠慮も要らない。 手塚がリョーマの姿に教えられたのは、そういう事だった。 もっとも、そんな考えがちゃんとした形となったのは、いまこの場でこうして彼と過ごしてから、だけれど。 「ずいぶんでっかい遊び場だね……」 リョーマは肩をすくめつつ、含みを込めたような微笑を見せた。 「遊びで終わらせるか、そこを踏み台にするかは、それぞれの選択次第だがな」 付け加えられた手塚の言葉に、リョーマは「ふーん」と曖昧に返した。 手塚とじっくり話した事などなかったから、リョーマにとっては彼の一言一言がすべて発見だった。普段不必要なまでに壁で覆い尽くされているかのように感じる手塚の世界。それを垣間見て、リョーマは思う。 きっとこの人は、その遊びの場を超えて高く昇りつめて行く人だ。 手塚自身がそこまで自覚しているかはわからない。しかしリョーマの中で、それは確信となって焼き付けられた。今、そんな事を自分が声高に宣言するつもりはなかったから、それきり黙って竿を振るう手塚に、何もかける言葉はなかったけれど。 多少無茶をしてでも、今日この人の事を追いかけてきて良かったかな、などという結果オーライな事だけを、ぼんやりと頭の中で巡らせて。 今日まで知らなかった静かな手塚の姿を眺めながら、リョーマは考えた。 今はまだ、このままでいい。 けれどここを超えて駆け上がろうとする世界は、どんな途方もない場所だろう。 手塚はそこへと向かって行く。ならば、自分は? 手塚が纏う特有の輝きの意味を知ったような気がして、リョーマはただその姿を見つめ続けた。手塚が見出した、自分自身が持つ同じ輝きには――未だ気付かないままに。 |