UP20020123
TOP OF THE WORLD ― 1 不確かな波涛
その存在を、何と表現すれば正しかったのか。 奇蹟。それとも、脅威――? 高い位置にある窓辺から見下ろしたその姿は、絶対的に他とは違う存在感を持ちながらそこにあって。例えるものが、見つからない。 この感情を、何と呼べばいい。 天を目指す木の芽さながらにまっすぐと伸びるその力は、遠くない未来に必ず追い付いてくるだろう。そして、いずれ必ず大きな壁となって目の前に立ちはだかる。 畏れを感じたと、思う。 けれど、それだけではない。 久しく感じる事のなかった危機感に、歓喜すら覚える胸の内を自覚しながら、得体の知れない感情に突き動かされる自分の衝動が理解できない。この正体不明の胸の震えは何だ。それを誘発する、彼は一体何なんだ。 一生の中に組み込まれる決定的な瞬間を、彼はその時まだ自覚していなかった。 男子テニス部顧問竜崎は、あっさりとした微笑みを覗かせながらも微かに嘆息した。 「らしくないと言おうか、らしいと言うべきか」 青学テニス部の伝統。レギュラーを決定するランキング戦に、新入学の一年生は参加できないと。いつからそういう事になったのか、もう忘れた。 しかし方式の差こそあれ、中学校の縦社会など、どこも似たようなものだ。特に体育会系の部活動である場合、どれほどの実力があろうと大概においては年功序列が最優先される節がある。少数の例外はあるが、中学校でのこのシステムが、社会に出る前の最初の社会勉強の場となる訳だ。 日本の学校社会の長所なのか、短所なのか。 入学してくるなり、見る者に凄まじい実力を見せ付けた一年生、越前リョーマ。小さな身体から溢れ返る才能を目の当たりにして、部長である手塚はその伝統をいとも簡単に覆した。規律や伝統といったものを誰よりも重んじているように見える、いや、実際その通りであろう手塚のこの行動がもたらした波紋は、部内のみに留まらなかった。 「何を考えている?」 そんな竜崎の呟きにも、手塚は何の反応も返さない。 この状況が良いとか悪いとか、それを自分で決定するつもりは、竜崎にはない。それは今この場にいる人間が決める事ではなく、いずれ招かれる『結果』がもたらすものだろう。大体、良いとか悪いとか、一遍通りの言葉で片付く問題ではないとも思う。 例外なく自分も踏んだ遠回りの段階を、手塚はリョーマに提示しなかった。 何故なのかと聞かれれば、実力があったからだ、と言うより他はない。事実、その通りであったし。一年生の頃から相当の実力があった手塚が最初のランキング戦に参入できなかったのは、当時の部長の決めた事であるから致し方ない部分もある。なにも、その事に対するリベンジを試みたくてわざわざ伝統を打ち破った訳ではない。 では何故。 もしも誰かにそんな事を訊ねられたところで、事細かに口頭で説明する気は手塚にはさらさらないが……。 実力はある。正直、実力があるなんてもんじゃない。そのレベルが、他とは比べ物にならない。今はまだ発展途上であるだろうが、想像を絶する速さで彼は他を圧倒し、颯爽と抜き去っていくだろう。 だから早く。一刻も早く、彼をこの実力社会に放り込んでしまいたかった。 彼はその溢れる力でもって、周囲を存分に引っ掻き回す事だろう。そうしてその脅威が知れ渡る事になれば、それはそこにいるすべての人間が上へと這い上がっていくための刺激となる。それは青学テニス部内に留まる事なく、時期が来れば外界へも及んで行くだろう。そして確実に、日本中を震撼させる火種のひとつとなる。 そんな風に揺れ動く世界というのは、一体どんな光景だろう。 考えただけで、戦慄が走る。 そんな想像を絶する波は、手塚ですら例外なく呑み込んで行くだろう。しかし手塚は、それこそを待っている。誰よりも一番その波を待ち望んでいるのは、彼自身なのだ。 目の前にぶつかるべき壁のない人間が更に上へと伸びて行くのは、人が考えているよりもはるかに難しい。それほどの抜きんでた実力を抱え込んでいるのが、手塚だ。中学校という狭い空間から解き放たれればそれ相応の障害も生じてくるのだろうが、彼が今いる空間で目標となる対象を探すのは至難の技だ。結果、知らずの内に自分的に伸び悩む事となる。 後ろから急っつく存在が、まったく無い訳ではない。 通常のレベルよりもはるかに実力に恵まれている青学テニス部の人材が、いつでも後ろでせめぎあっているのは事実だ。おいそれと侮ってかかれるような人間達ではない。けれど。 リョーマは、それらすべてを凌駕するほどに特別だった。 彼ならば必ず、手塚すらを戦慄させ、駆立てる存在になる。そんな風に思うのは手塚自身の直感のみが原動力であったが、その直感に間違いはないと彼は確信している。 目標となる上の存在が無ければ実力を伸ばして行くのは難しい。けれど手塚の場合、もうひとつの道がある。上はなくとも、下から凄まじい勢いで駆け上がってくる存在があれば、それが自分を上へと導く力となる。 手塚はリョーマに、それを求めているのかもしれない。 人は誰でも、独りきりでは強くなれないのだ。 力になり、励ましてくれる優しい存在、という意味で良く使われる言葉だが、手塚に関してはそういう事ではなく。同じ高みへと目指す誰かが、今の手塚には必要なのだ。 手塚にとって、リョーマはそういう存在だった。 「どうしてランキング戦に参加させたんスか?」 ズバリそんな事を質問してきたのは、誰であろうリョーマ本人だった。 「それを聞いてどうする」 にべもなく、それだけを返す手塚。チラリとリョーマを一瞥しただけですぐに外された視線に気分を害した訳ではなかったが、リョーマはやれやれと溜息をつく。 「言いたくないなら別に言わなくたっていっスけど」 相も変わらず、リョーマは他人との会話の際、言葉じりにまったく気を遣わない。その性格ゆえに他人との衝突も日常茶飯事な訳だが、それを直そうという努力をするつもりはさらさらないらしい。 手塚の方も気にした風でもなく、またリョーマを見つめる。普通の人間、ましてや後輩であるなら手塚のそんな視線に射抜かれるだけで萎縮してしまうところだが、リョーマに限ってはそんな素振りさえも無い。 「つまんない伝統とか縦社会ってやつ。そういうの一番重視する人に見えたから、ちょっと興味があるだけっス」 リョーマのその意見は、あながち間違いではない。 手塚はふいと側方に目を向ける。 「目上を敬う。それは当然の事だ。だが部活動の性質上、単に年齢だけの問題ではなくて、実力という点でも上下の関係は自ずと決まってくるものだ」 「ふーん」 「……それだけの実力があった、とでも言えば、お前は満足するのか?」 「別に」 手塚の言葉にも、無反応に見えるリョーマ。何も、この部長からそんな賛辞の言葉を吐き出させて、してやったりと悦に浸りたい訳ではない。 リョーマは、チラリと手塚の横顔を盗み見た。 手塚国光。この人って。 人が話をする時には、怖いくらいにまっすぐにその人を見つめているのに、自分が人に何事かの言葉をかける時に瞳を逸らすのは、どうやらこの人の癖らしい。まっすぐにこの人の言葉を受けた事が無いから、一体何を考えて人と接しているのか本当に解らない。 だから、興味を持ったのかもしれない。 なぜランキング戦のメンバーにリョーマを加えたのか、本当に聞きたかったのはそこではない。それを決めたのはどういう考えに基づいてなのか、そこのところが知りたかったのだ。 「実力があるのは事実だ。実戦経験も豊富なのだろう。しのぎを削り合うのは、強くなるには有効な手段だ。誰のためにも」 「ふーん……」 機会は有効に使えという事だろうか。 才能の伸ばしどころを見失う事のない、冷静な判断力の持ち主なのは確かなのだろうが。 「あんたって、結構テニス馬鹿なんだね。生活の全部、テニスにつぎ込んでるみたい」 そんなリョーマの言葉には、手塚はノーコメントを決め込んだ。 そういうつもりは、手塚にはない。テニス馬鹿、という称号は言い得て妙だが、なにも彼の一挙手一投足がテニスのために存在している訳ではない。テニスの事以外だって、日常の中で考えなければならない事は山のようにある。 そんな事を考えながら、胸の内に妙な取っ掛かりがある事に手塚は気付いた。 ――? それが何なのかはわからない。 確かにここ最近の手塚は何かに掻きたてられるような感覚に囚われていた。リョーマにそんな風に言われても仕方が無いくらいに、部活動のことばかりを最優先で考えていた節がある。リョーマという例外的な後輩のテニスセンスに突き動かされての事だと思っていたが、何かが、違うような気がする。 それだけでは、ない? 意味不明な心の中の深み。それが手塚本人にも分るような形を取るのを遮るように、リョーマがまた口を開いた。 「まあ、部長が何考えてんのかはワカンナイけど、試合が出来るのは大歓迎っスよ。面倒くさい規律なんてのに縛られたら、太刀打ちできないし」 そんなリョーマの言葉には、手塚は嘆息するしかない。 「少しは規律も学習したらどうだ。実力一点張りで通用する世界ばかりじゃないぞ」 リョーマのさばけた性格は、敵も味方も多かろうが、場合によってはとり返しのつかない事態を招く事だってある。世界に存在しているのが自分ひとりでない限り、どうあっても社会性というのは必要になってくるものだ。リョーマに社会性の欠片もない、とまでは、手塚も思っている訳ではないが。 「こんな性格じゃ、生きていけないと思う?」 あくまでシャレを言うような軽い響きで、リョーマは質した。ここでYESと答えられたところで、リョーマはそれを直そうと考えている訳ではないのだが。 「そうでもないだろう」 意外な手塚の言葉。 「生活する舞台をちゃんと選べばな」 「ナニソレ……」 手塚のその言葉は、リョーマには少々難しい。しかし、性格そのものを否定された訳ではないらしいから、少なくとも手塚と手塚率いる青学テニス部の中ではこのままで良いという事だろう。いくら性格を直すつもりがないといっても、結構面白いと思っているこの場を締め出されてしまうのではつまらない。 それにしても――だ。 「あんたって、ホントに変なヒトだね」 リョーマの、手塚に対する素直な感想。そんなリョーマの言葉に対して、手塚は無表情のまま一言だけ言い返した。 「お前に言われたくはない」 手塚は常にひとりきりだった。 本人が自覚している訳ではないから、それに対する何がしかの感想がある訳ではない。 誰だって、生まれ落ちた瞬間にはひとりきりなのだ。 成長して外の世界に出て行く毎に、周りを囲む人間は自ずと増えてくる。その内数え切れないくらいに多くの人間の中から、敵や味方、仲間や友人といった存在が生まれるのだ。大抵の場合はそんな他人が心のより所となり、その中で人は生きて行く事が出来る。 本当は、究極にはたったひとりであることには――気付かないままに。 けれど。 しかし、そうではない別の何かを見出す、そんな道も確かにあるのだ。 手塚の中に、その道は確実に形を成して生まれていた。 何故ひとがひとりで生まれてくるのか。 不確かな手探りを繰り返しながら、何故ひとりきりで生きて行くのか。 手塚はその事に――未だ、気付かないままであったけれど。 |