UP20011201
ソラ ノ アオ ― 7 空へと続く場所
いつから。 イツ から アナタ を スキ だったんだろう―― 逃げる事に、なるのかな。 あの人のいるところから。 リョーマは、大石の言葉を何度も胸の内で反芻する。 あいつじゃなきゃ、駄目なのか。 他の全てをシャットアウトしてまであの人の事を最優先にしなければならないほど、彼は自分にとって至上の存在なんだろうか。テニスの最良の環境を失ってまで? 自分にとってどちらが大事、なんて、比べられる筈がない。 今感じているこの痛みが、何よりも大きすぎるだけだ。 どうにもならない事って、確かにある。 どんなに今の自分を叱咤しても。 どれだけ、自分を殴り飛ばしたいような衝動に駆られても――。 辛いだろうに。 そんな大石の言葉に、不二は微笑んだ。 「どうしちゃったの大石。そんなに越前君の事、気になる? 最近彼の事ばかりじゃない」 「からかうなよ」 肩をすくめた後、大石はため息をつく。 「……早熟すぎてさ。気になるんだよ。そうでなくとも障害多いってのに」 「見つけるのが早かったよね……たったひとりの人。あんな風に、なるものなんだ」 冗談や遊びで済ませられるようなら、何も苦労はなかったのに。 何もかもを一足飛びにして辿り着いてしまった、たったひとつの思い。もっと遠回りをして、色々な経験を積んで精神的にも余裕ができてからなら、あんなにまで苦しむ事もなかったのかもしれない。そうでなくともこういう事に関しては、熟れている筈の人間でもあれこれと逡巡する事が多いのだ。 「不二は、越前に何をさせたいんだ?」 「何って?」 「勝機が見えている筈もないのに、あんな風に引き止めたりして。その割には傍観を決め込んでるように見えるし」 不二は、そんな大石の言葉にもただ笑うだけ。 「最初から、口出す気はないよ。だって手塚、自分で決めたって言ってるし」 「なんだよ、それ」 「時には逃げってのもアリだと思うよ。でも今の越前君は、逃げない方がいい」 「なんで」 もうギリギリのところまできていると、大石は思う。これ以上どうしろというのか、ただ笑うだけの不二の真意は読み取れない。 「大石さ、越前君の事ばかり見てたでしょ。他の事なんて、見えてなかったんじゃないの」 「……」 「知ってる? 運命の人ってのはさ、お互いがそうでなければ意味がないんだよ」 「……何が言いたい?」 「さあね」 何を考えているのか、不二はそっと、メニューをこなすリョーマの方へと視線を向けた。 「とにかくあとは、純粋無垢な力自慢君にお任せってトコロ」 騒がしい同輩連中と共に、用具を全てしまい終えたところで、背後にかぶさるような大きな影に気付いてリョーマは振り返った。 「越前、ちょっと付き合ってくれる?」 ニコニコとかがんだ姿勢で声を掛けてきたのは河村だ。 二人の身長差を思わせるそんな仕草も、彼がやるとあまりイヤミにならない。 「どこに?」 「うん、いいところに」 「はぁ?」 いぶかしそうに眉を寄せるリョーマの両脇に、スッと腕を差し入れる河村。そのままグインと小柄な身体をその肩に担ぎ上げた。 仰天してしまうリョーマ。 「ちょっと!」 「まあいいから、ついてきてよ」 タッタッタ、とリョーマを担いだまま小走りする河村は、何気に楽しそうだ。 「ついて、って、担がれてたらついてくも何も、ちょっと先輩!」 暴れるリョーマにもびくともしない。 何を考えているんだこの人は、と心の中で捲し立てるうちに、河村はコートから抜けて近くにある桜の木の下までやってきた。 そこで立ち止まった河村は、ストン、とリョーマの身体を降ろす。 「何なんスか、一体」 不機嫌そうな表情を隠そうともせずに呟くリョーマに、河村はスイ、とその背後を指差した。 仕方なくそこに目を向ければ。 少し離れた場所で、突っ立ったままこちらを凝視している手塚の姿があった。 「――……」 無音の間。 「手塚、不二なら来ないよ」 にこやかにそう告げる河村。 「……謀ったのか」 「そうみたいだね」 にこやかに。 「急かしている、という事か?」 「さあ。俺はただ、不二に越前をここに連れてくるように頼まれただけだから」 どういうことだ。この人達は何を言っているんだ。 どうしてここに、手塚がいるのか。というか、なぜ河村はわざわざ手塚のいる場所にリョーマを連れてきたのか。 リョーマは半ばパニックに陥っていた。 そんなリョーマの肩を、河村は気軽にポンと叩く。 「手塚とケンカでもしてたの? この部長とケンカできるなんて頼もしい限りだけどさ、せっかくだから、ちゃんと仲直りした方がいいよ。ね!」 ポフポフとその肩を叩きまくった河村は、邪魔者は退散とばかりに踵を返した。 「ちょっと先輩!」 仲直りって、事はそんなに簡単に行く問題ではない。一体何をどのように解釈してそんな言葉が出たのかかなり謎だが、河村は背後からのリョーマの声にも振り向く事なく、ヒラヒラと手を振ってその場を去ってしまった。 「……」 「……」 後に残されたのは、最高潮に気まずい雰囲気の二人。 「何のつもりっスか。こんなところまでひっぱりだして」 口火を切ったのは、リョーマだ。 「俺じゃない。俺はここで不二を待っていた。河村は奴にそそのかされたらしいが」 「……」 やけにまっすぐな瞳で見つめてくる手塚。 何なんだ。こういう場合、相手を直視できないのはむしろ手塚の方ではないのか。いま目の前にいるのは、常軌を逸して自分に懸想している質の悪い人間なのだ。 「部を辞めると言っていたな」 頷いていいものかどうか。正式に辞めたいと申し出た訳ではない。 「その必要はない」 意外な、手塚の一言。 「なんで。それ決めるの、俺だし。あんたの傍にいたくなかったからそう言ったんだよ。あんたが引退するまで待ってなんかいられない」 負けじと、手塚を見つめるリョーマ。 「辞めたり、引退を待つ必要はないと言っているんだ」 だからどうして。 傍にいるのが辛いって人が言ってんのに、随分横暴な人だよね。 「まさか、あんたが辞めるつもりじゃないでしょ」 「なぜ俺が」 ……それはそうだろう。 わかってはいたが、見事な即答だ。 「俺に我慢してろって言いたいの」 「その必要もない」 あんたねえ。 「何言ってるのかワカンナイよ、あんた」 テニス部を辞める事もなく、手塚の引退も待たず、無論手塚が部を去る訳でもない。つまりはまったくの現状維持。それでリョーマが我慢しきれるとでも思っているのか。 いや違う。手塚は「必要ない」と言ったのだ。 我慢をする、必要もないと。 このままの状態で、それでもなおリョーマが平穏に過ごせる状況というのは。 それではまるで。 「ねえ、部長。一応誤解の生まれないうちに言っておくけど」 「なんだ」 ちょっと考えても、残された結論は他にはないような気がしてしまう。 だって、リョーマにはそれしかないのだ。 リョーマが手塚の傍にいながら心の平穏を保てる道は、もうそれしか残されていない。その事を、手塚はわかって言っているのか。 「その言い方だと、"俺もお前が好きだから、我慢しなくていい"って聞こえるよ」 「そのとおりだ」 …………。 なんだって。 たっぷり一分間ほど沈黙しただろうか。 あまりに予想外の事を聞かされると、かえってクールダウンしてしまうものなのかもしれない。リョーマははっきりと大きな瞳で手塚を見据えたまま、微動だにせずに一言だけ、言った。 「……いつから?」 一瞬、それしか疑問が湧いてこなかった。 「……俺もそれを、ずっと考えていた」 いつからなんだろう、と。 いつから自分は、この後輩の事を他とは違う特別な感情を持って見つめていたのか。 「多分、最初に変だと思ったのは、お前を家まで連れ帰ったあの時だ」 リョーマを背負って帰った、あの時。 「お前は眠っていたから気付かなかっただろうが、あの時お前の家には従姉だとかいう、彼女しかいなかった」 菜々子の事だ。 大石と共に越前家を訪れた時、家にいたのは菜々子ひとりだった。その時彼女が、具合が良くないらしいリョーマのためにおじやでも作ると言い出し、大石はそれを手伝うと申し出て、共に台所に向かった。だから手塚がそのままリョーマを部屋まで連れて行く事になったのだ。 その時、カゲで大石が菜々子に諸事情による仮病の事を話して頭を下げまくっていた事は、手塚はまったく知らないが。 「本来なら、あんな面倒事は御免被りたいと思うところだ。それなのに、その時は違った」 リョーマを背負ったまま家路を辿り。 眠ったままのその身体をベッドに横たえた時も。 その寝顔をぼんやりと眺めながら、こういう姿を見るのも悪くない、と思ったのだ。 いや、ちがう。 こういう姿をいつも見ていたいというよりは、こんな役割は自分以外の誰にもさせたくない、とすら思った。 思えばいつも、自分はリョーマの姿を追っていたような気がする。快活で明朗な、その姿。そんな彼の明るさも、いま目の前にある無防備な姿も、とてもとても、特別なもののように思えて。 自分の頬にかかったリョーマの柔らかい髪も。 自分の背中にすべてを預けるその身体も。 誰にも、触れさせたくないと。 「何……言ってんの……。だって、あんた……」 いつの間にか、カラカラに渇いていた喉のせいで、リョーマの声は上ずる。 「あの時は、俺が悪かった。酷い事を言った。だがあれは、殆ど自分自身への言葉だった」 リョーマを突き放した、あの時。 「俺は、その時からずっと迷っていた。なんでこんな気持ちを、お前に抱くのかと」 自分はどうかしてしまったのだろうかと。 気が狂ったのだろうかと、本気で考えた。 どうする事もできない想いだと、思った。こんな、常識では考えられないような気持ちを抱いていたところで、一体何ができるというのか。絶対に、失うものの方が多い。 不二の言ったように、常識とか、モラルとか。そんな言葉が頭の中を巡っていたのも事実だ。 だから、こんな想いはリョーマには知らせずに、いつか落ち着く時まで待とうと。 それが例え、逃げであっても。 この場合、現実的に考えて、誰が手塚を責められよう。 だがそれを、リョーマ自身が打ち破ったのだ。 そんな時に突きつけられたリョーマの行動は、まるでそんな自分の図星を指されたようで。 だから、最悪に不用意な言葉が飛び出してしまった。 けれどあの時は、本当にそう思ってしまったのだ。 「失いたくない、色々な事が先に立った。だから咄嗟に、あんな風にお前を突き放した。だが、その後冷静になって考えた時に、それが間違っていたと気付いた」 自分は間違っていた。 本当に失いたくないもの。 それは、常識でも対面でもない。 それだってとても大切なものだが、それよりも何よりも、リョーマを失うその事の方が何倍も辛い事ではないか。 何が一番大切だったのか。 リョーマ、その人だ。 大体において、本当に大切なものは、失ってからそれに気付く。 「そこまで思い至るのに、今までかかった。だからお前に責められても、当然だと思う」 瞬きもせずに己を見つめるリョーマの視線をかわすように、手塚は背を向けた。 リョーマは、言葉もなくその場に突っ立ったまま。 手塚の口から出た様々な言葉を頭の中で整理し、理解するのに相当な時間を要した。 そうしているうちに、じんわりと溢れかえってくる、様々な想い。 いいの。 本当に、いいの? ――信じて、いいんだね? 「今更何を言っても遅いかもしれない。だが、全部真実だ」 リョーマは、静かに一歩、手塚の方へと踏み出した。 「……部長?」 「なんだ」 「俺、今から凄くらしくない事するけど、いいっすか?」 「どうぞ」 背を向けたままの手塚。 その背中に、一歩ずつ近付く。 手塚に手の届く場所まで来て、そっと手を伸ばす。その上着の裾に触れた両手で、それをギュウ、と握り締めた。 そして、広い背中にトン、と額を預けて。 自分でも驚くほどの、小さな、吐息。 逃げないんだね。本当に。 今度こそ、本当に――。 「部長……ちゃんと、言って」 リョーマが身体を預けても微動だにしないその背に、呟くように言葉をかける。 その身体が、微かに身じろいだ。 俯き加減だった顔を、上げたらしい。 「好きだ」 たったひとこと。 けれど、これだけを、自分は欲していた。 好きになって。好きになって欲しいと、ずっと、ずっと。 どうしようかな、と、リョーマは思った。何だか、泣けてしまいそうだ。 だがな、と手塚は付け足すように言う。 「いいかげん懲りているかもしれないが、俺は結構酷い人間だぞ」 「なんで?」 「お前が大石の腕の中で泣いた時」 リョーマは一瞬瞬きをした。 そういえばあの時、この人あそこにいたんだね? と思う。言われてみれば、退部希望の事も知っていたようだし。 「あの時、お前が泣いたその事よりも、お前が大石の腕の中で泣いたという事実に、俺は腹立たしさを覚えたよ」 自分がそうさせたのだという事は、誰よりもわかっていたけれど。 突き放して、泣かせて。 しかし、はっきりと自分の気持ちを認める事ができたのも、あの時だ。 「呆れるなとは、言えないが」 リョーマは、笑うしかない。 駄目だよ部長、今は、きっと何を言われても嬉しい――。 「今からでも、遅くないっスよ」 リョーマがそう言って身体を離すと、手塚はリョーマの方へと向き直った。リョーマはそんな手塚の、袖を通しただけの上着の中に身体を潜り込ませると、ギュウ、と両の手をきつく彼の背に回す。そして、その胸に頬を押し当てた。 背中に、手塚の腕が回される優しい感触。 泣いてしまいそうな、抱擁。 あんたは俺より、色々な大切な事を沢山知ってたんだね。だからずっと、迷ってたんだね。 でも、その大切な事全部より、俺の事を望んでくれた。 本当に。本当に、俺の。 俺の、部長――。 手が届かないと思っていた、遠い空。 だけどそれは、違った。 どんなに遠くに見えても、伸ばした手も触れないように思えても。 今ここに立つ自分をいつも取り巻いている大気は、必ずあの空に続いているのだと。 青の空に、自分はいつでも触れていたのだと。 そして。 あの空からそそがれる光はいつも、自分を包み込んでいたのだと。 やっと、気付いた――。 ボールを打つ、軽快な音が響き渡るコートの隅で。 大石は静かにため息をついた。 「お見それしました」 そんな言葉に、不二は笑う。 「だから言ったでしょ。手塚は自分で決めたんだって」 手塚はみずから、リョーマと共にある事を望んだのだと。 「いつから気付いてたんだ?」 「見てればわかるよ。付き合い長いもん。大石は越前君ばかり見てたから気付かなかっただろうけどね」 返す言葉もない。 手塚の胸の内を知っていたから、不二はリョーマを引き止めたのだ。 「超能力者じゃないのか、お前」 「そうかもね」 軽口をたたき合いながら、不二と大石はコートの二人を見つめる。 手塚とリョーマは、これまでにない輝きを放ちながらそこに存在していた。 誰も何も、問わないし、言わないけれど。 そんな風に輝く二人が、そこに有るべき本当の姿なのだと無意識の中で思う。 だからこそ。 だからこそ、運命の二人なのだ、と。 |