UP20011128
ソラ ノ アオ ― 6 空の青
フワン、と通りぬける緩やかな風に、不二はそっと揺れる髪をその手で抑えた。 最近は穏やかな日が続いているけれど。 「変わったよね……」 小さな声で、ポツリと呟いた。 毎日の部活動の中で、リョーマも手塚も見た目は普段となんら変わる事はなかった。 けれど。 お互いから逃げるでもなく、必要以上に会話を避けるでもなく。まったく変わらないように見える彼らなのに、しかし、ふたりが揃っているとその場に妙な緊張感のようなものが漂うようになった。そうなったのは、つい最近だ。 敏感な者だけではない。 手塚やリョーマと親しい者のみならず、他人の事にはまったく関心を示していないように見える海堂でさえ、そんな空気に一瞬顔をしかめた。もっとも大抵の人間の場合、何があってそんな事になったのかというところまでは介入する気はなかったが。 リョーマは金網の外に立って、誰もいないテニスコートをぼんやりと眺めた。 テニス部内の不穏な空気に揺れる周りの雰囲気にも我感知せず、といった感じの彼だが、真相はわからない。 今日は職員会議で部活動は行われない。放課後になった途端に、生徒達はさっさと校内から追い出されていた。だから普段は運動部でにぎわうグラウンドもテニスコートも、今は閑散としている。 そんな静まり返った空気を緩やかに振り払うように、リョーマはふいと顔を上げた。 視線を、晴れた空へと向ける。 部長ってさ、青が良く似合うよね。 リョーマは胸の内で呟いた。 イメージカラーと言われたら絶対に青。この空の色にも似た、深い――青。 この地上をすべて覆い尽くしている空は、とても、とても大きい。 だから、大きすぎるから、どこにいても絶対に視界の中に入ってくる。だけど絶対に、手が届かない。 あまりに大きなものは、その大きさ故に案外に遠くにあっても近くに見えるものだ。けれどその手で掴めるような期待が一瞬生まれるような青い空は、はるか彼方にあって実際には手が届かない。どんなに手を伸ばしても、背伸びをしても。 そんなところが、良く似ている。 綺麗で眩しくて手の届かない――空の青色。 近付く静かな気配に振り向こうとして、そうする前にポンと肩を叩かれた。 「今日は、部活はできないぞ」 一寸後に振り返ったリョーマの視線の先でそう言ったのは、大石だ。 「知ってるっス」 「そうか」 いつも優しく微笑んでいるその表情は、今はことさらリョーマを気遣うように穏やかで。 だから、言ってみようかという気になった。 リョーマは身体ごと大石の方へと向き直って、金網に寄り掛かった。 「ねえ、ふくぶちょー?」 「なんだ?」 先輩の静かな眼差しを受けて、リョーマは唇だけで笑う。 「俺、いない方がいい?」 「……? 何だって?」 言われた言葉の意味を掴みかねるといったような、複雑な表情。 「俺、テニス部にいない方がいい?」 「!?」 あまりの事に、何を言ってるんだ、と言おうとして言葉にできないままに口をパクパクさせてしまう大石。本当に本気で驚いているその表情が、彼らしい。 「大石先輩、全部知ってるんでしょ?」 一瞬息を呑んだ大石を見て、リョーマは笑った。 リョーマが部室でうたた寝をしていた時、仮病を使ってまで手塚にリョーマを送らせたのが誰だったのか。後から荷物を抱えて追いついてきた大石しかいないという事に、リョーマは後になって気がついた。 優しいこの人のやりそうな事だ、と。 「せっかく気を遣ってもらったけど、なんか駄目だし」 リョーマの言葉に、ゆるゆると首を振る大石。彼も、長い事手塚と一緒にいた同輩のカンもあって、決定的な何事かがあったらしいという事にうすうす感づいてはいたが。 「ちょっと待てよ越前、でも、それとこれとは」 「関係大アリでしょ。俺は我慢がきかない性格だし、上手く立ち回れないから、実際部活の中だって雰囲気おかしくなってるし」 それが自分のせいであるという事を、リョーマは自覚していた。 「これ以上今の俺がここにいても、不穏因子にしかならないっスよ。それこそ、まったく関係ない人まで巻き込んで」 それが紛れもない現状だと、リョーマは思う。 不安要素が部員に飛び火すれば、否応無しに部内の覇気は下降して行くだろう。自分たちの問題のせいで。 いや。手塚は悪くない。 悪いのは、全部自分だ。 こんな風になる前に自分をコントロールできていれば、何も問題はなかった筈だ。 だけどそれは、できなかった。 「越前……」 眉をひそめて、大石はリョーマを見つめる。 「どうしても、あいつじゃなきゃ駄目なのか?」 そうまでしなければならないほどに、手塚しかいないのか。 手塚の事を忘れる、という選択肢もあると、大石は思ったのだ。何も部活を辞めたりしなくても、手塚の事を諦める事ができるならと。 「部長じゃなきゃ駄目です」 「諦められないのか?」 「無理」 諦めるというか、そんな簡単に冷ませるくらいなら、こんな事になる前に何とかしていると、リョーマは呟く。 「だって越前、テニス……好きなんだろ?」 「好きっス」 テニスは好きだし、本当なら皆と一緒にやっていたい。青学テニス部は、素直に好きだと言える場所だった。 そういえば、こんなにテニスを好きになったのもあの人と会ってからだね。 リョーマは思い返した。 「けどどんなに好きだって、今のままじゃ、ちゃんとなんてできないし」 「越前……」 「テニスは独りでだってできるっスよ」 リョーマの言葉に、大石はまた首を振った。 「独りでだってできるかもしれないけど、独りの方がいいって事はないだろう!? どうしてだ? 手塚をやめればいいだけじゃないか!」 そんなには、上手くいかないんだよ。 リョーマは思う。 「ねえ先輩、知ってる? ……誰かを大切に思ってる事、気付いた瞬間てね。霧が晴れるみたいに、サァッて目の前が明るくなるんだよ」 ひとつずつズレていた部品がカチリと綺麗にはまったみたいに。そんな風に心の中で形創る事のできるものが自分にもあると知って。 リョーマは本当に嬉しかったのだ。 冷めたフリなんてせずに、堂々と自分の中で認める事のできる、熱い想い。 それはとてもとても、大事なもの。 だから、今どんなに辛くても。 「なかった事になんてできないし、したくない」 もしも今、手塚への想いを全て忘れさせてくれるなどという都合のいい魔法があったとしても。リョーマは決して、それに手を伸ばしたりはしない。 つらいけど。 とても――苦しいけど。 「だって、どこを取っても、仕方ない事だらけでしょ。このままここにいたら皆に悪影響ばかり与える。だけど、部長の気持ちは部長のもので。俺がいくら辛くたって、俺の事好きになって、なんて強要できないでしょ」 それと同じように、自分の気持ちも。 手塚がリョーマの事を好きになれないように。 リョーマも、手塚の事を忘れたりなど、できない。 リョーマは俯いた。 一瞬、泣いているように見えた。 微かにリョーマの肩が震えたような気がして、大石は思わずその手を差し伸べようとして。 強い力で、その腕をリョーマの手に捕らえられた。 振り仰いだリョーマの瞳からパラパラと飛び散ったいくつかの輝きをその身体に受けて、大石は呆然と小さな後輩を見つめた。 「しょうがないでしょうが! ……それでも、好きなんだもん!!」 己の腕を捕らえたまま身体を折って俯いたリョーマの頭を、大石はその身体で抱え込んだ。 「越前……」 テニスの事以外で、初めてリョーマが見せた激情。 それを目の当たりにして、大石は少なからず混乱した。 だめかもしれない。 こんな風に、こんなになるまで追いつめられている人間を、下手な理屈なんかで繋ぎ止める事なんてできない。このままここにいたら、周りがどうのと言う前にリョーマ自身が壊れてしまうかもしれない。 一度、ひとりにさせてやった方がいいんじゃないだろうか。 そんな風に思いはじめたところで、大石は別の人間の気配を感じて側方に目を向けた。 「――……」 そこに佇んでいたのは。 不二と、手塚だった。 帰り際に通りかかったらしい二人。不二の表情から察するに、おそらくは話を聞いていたのだろうと思う。 咄嗟に、大石はリョーマに手塚の存在を感付かせまいとするかのように、その身体を自分の身体で庇い覆い隠した。 自分でも、意外な行動だった。 そんな二人を目にして。 しかし手塚は、一寸たりともその表情を変えないまま、何事もなかったかのように再び歩き出した。振り返る事すらせずに。 手塚。 手塚――! 心の中で、大石は何度も叫んだ。 止まる事のないその人に向かって、何度も何度も。 本当に呼び留める事ができたとして、手塚に対して何を言おうとしたのか、何を言いたいのか、大石本人にも見当がつかなかったけれど。 不二だけが、その場に佇んでいる。 「越前君」 静かに掛けられた声に、リョーマは一瞬ピクリと反応したが、その顔は俯いたまま。 それでも構わず、不二は言葉を続けた。 「越前君。部活、辞める事なんて考えないで。もう少しだけ、頑張ろう?」 「不二、だけど……」 戸惑いを隠せずに、大石は不二を見つめる。 「大石」 たしなめるように呼びかけて、不二はやんわりとリョーマの髪を撫でた。 「ボクだって、普通ならこんな事で口を挟んだりしないよ。けどね」 だけどね、大石――。 不二はそっと、俯いたままのリョーマを見つめた。 進退騒ぎがうやむやになったまま、リョーマはそれでも休む事なく部活動を続けていた。 どれだけの事が胸中に渦巻いているのか、計り知れなくはあったけれど。 それを眺めながら、不二は隣に立つ手塚に話し掛ける。 「越前君、泣いてたね」 「……そうだな」 他人事のような手塚の言葉。あまりにらしすぎて、不二は苦笑を禁じ得ない。 「ひどい奴だよね。最初に視線で追いかけてたのは、君なのに」 「……」 からかうような不二の言葉にも、手塚は反応を示さない。 「お堅い手塚君。そうまでして守りたいものって何? 常識? モラル?」 「説教でもしたいのか」 「まさか。越前君も思ってるように、君の気持ちは君の、彼の気持ちは彼のものでしょ。他の誰が口出しできるの。越前君が本当にここを辞めたいって言うなら最終的に反対はできないし、手塚が越前君の事を好きになれなくても、それは手塚の決める事だし」 「やめさせたりはしない」 躊躇なく言う手塚を、不二は目を丸くして見つめてしまった。 「うわ、欲張りだなあ。別にいいけどね。……それに」 不二は、やれやれと言ったように瞳を細めて笑った。 「やっぱり、ボクには何も言えないし。だって手塚、自分で決めたんだもんね」 「そうだ」 キッパリと言って、手塚は俯き加減だった顔をほんの少し上げた。 さまよっているようにも見えるその瞳が、何を見ているのかはわからない。 この時手塚が思い描いていたのは、自分を好きだと言ったリョーマの姿だった。 「どうしたの」 不二の言葉に、手塚は再び視線を下方へと戻す。 そしてチラリと、一瞬だけ不二へと瞳を向けた。 「……いつからだろう、と思っただけだ」 「……?」 ――いつから、なんだろう。 腕を組んだままの手塚は、それ以上何も言わずに、ただ前を見つめるだけだった。 |