UP20011126

ソラ ノ アオ  ― 5 変わらないもの




 こういう事って、ホントにあるんだね。
 それが今のリョーマの、正直な感想だった。

「越前君、好きな人はいるの?」
 目の前の女生徒(クラスは違うが、同級生らしい)は、典型的に胸のあたりで両手を組んで、何やら切羽詰まった表情でそう訊いてくる。呼び出しに応じる性格ではないと調査済みなのか、たまたま人気のない渡り廊下を通りかかった時に、小さな声で呼び止められた。これがいわゆる、告白タイムというヤツか。
 中学校ってのは、どういう社会なんだろうなあ、と思う。
 まるで一生分の気力を使ってしまおうといわんばかりの、彼女の真剣な眼差し。その目なんて、すでに微かに潤んでいるではないか。
 こういう、いわゆる『女の子の一生懸命』は、総じて男には伝わりにくい。どうしたものか、と思ってしまうのが正直なところだが、リョーマはまあ、何事にも真剣な人は嫌いではない。

 けどね。
 ありがちなシーンだけど、まず最初にそれを聞いてどうするの?
 そんな風に思う。
 きっとこの女生徒は自分の事が好きで、その事を告白してくる気でいるんだろう。それは、なんとなくわかる。けれどじゃあ、まずその前に「好きな人がいるかどうか」を聞いて、それでどうしたいんだろう。
 好きな人がいたら、諦めるの?
 そんな事で簡単に諦められるような好き、な訳? 好きな人がいるかどうかなんて、そんな事は自分の気持ちに関係ないんじゃないのかな。
 ちょっと意地悪に、そんな事を考えてしまう。

 ああ、そうじゃないよね。

 すぐにそう、思い返す。
 もしも相手に好きな人がいるとしたら、自分の気持ちを強引に押し付けて、相手の負担になるような事をしたくないからだよね。
 それに何よりも、ただ単に、気になってしまうんだろう。
 相手に好きな人がいたとして、何もその相手を恨んでしまったり、邪魔をしたいと思ったり、そういう事がしたい訳じゃないんだろう。少なくとも、今目の前にいるこの子の場合。
 ただ、好きな人がいるのか。それはどんな人なのか。
 この人が今、誰かに思いを傾けているのか。
 ただ、気になってしまうだけなんだ。
 なんとなく、わかる……気がする。
 誰かを好きになってしまうって、そんなものだ。
 その人の事を考えただけで、嬉しかったり楽しかったり。でもいつもいつも、不安や迷いが付きまとう。気持ちを伝えたい。できれば自分の事、好きになってもらいたい。だけど相手の気持ちは、自分ではどうにもできない。
 真剣であればあるほど、それは滑稽なものなのかもしれないね。
 ねえ……部長?

 だから、正直に答える気になった。この子も本気なら、自分も本気で。
 好きな人は、いるの――?

「いるよ」

 リョーマのその言葉に、女生徒は明らかに動揺した表情へと変わった。
「え、え……そう、なの……」
「うん」
「だ、誰?」
 ついそんな言葉が出てしまって、しかし女生徒はブルブルと両手を振った。
「ごめん、そんな事、言えないよね! ていうか、言う必要ないよね! ……あの」
「うん?」
 おずおずと、リョーマを見つめる。
「どんな、人?」
 なんだかなあ。
 リョーマは苦笑してしまいそうになる。
 まあ、わからなくは、ないな。
「そだね。無愛想で融通が利かなくて人をいいように振り回す、王様みたいな人」
「え〜……」
 あの人の姿を、自然思い浮かべる。
「でも何にでも真剣で、少し優しいよ」
 微かにこぼれたリョーマの笑顔に、女生徒は頷いた。
「そう……」
 ありがと、と、彼女は言った。
「中学に入って越前君の事知って、まだそんなに経ってないのに、バカみたいって思われたらどうしようかって思ってた」
 だけどどうしても、この気持ちだけ知って欲しかったのだと彼女は笑う。
 リョーマに好きな人がいるという点については、少しがっかりした顔だったけれど、やっぱりそう簡単に独占はできないよね、と。それでも気持ちは変わらないから、と。
 部活頑張ってね、と、彼女は元気に手を振って渡り廊下を走っていった。
 もう少し愛想のある言い方もあったのかもしれない。けれど、その気もないのに優しくしたってどうにもならないだろう。それでなくとも、顔も知らない子なのに。
 けれど。

 みんな同じだ。
 みんな真剣で、だから、気持ちを抑える事が難しい。
 少なくとも、あの子は勇気があったと思う。状況の変化を恐れて躊躇している自分より、よほど。
「俺らしくもないけどね」
 それはわかっているけど……ね。



 今日も今日とて、手塚を目で追ってしまう自分が悲しい。
 ずっとこんな調子でどうすんの。
 こんな生活、嬉しくないでしょ?
 だけどじゃあ……ちゃんと言ってみる? 何とも思われていないのをわかってて、トドメを刺してもらうために。

 正直、そろそろ限界なんじゃないかと思う。
 本当の『好き』を告げられない間も、気持ちは膨れ上がるばかりだ。いや、無理矢理心の中に留めているからこそ、その想いは出口を求めて暴れるのだろう。
 けれど、この想いが成就する事はない。
 ジレンマだ。
「きっちり、フラレてるもんね」
 フッた本人にその自覚がないから、こんなに悩む羽目になっているのだけれど。
「イタイなあ……」
 心が、痛い。
 好きな人に、必ずしも同じように好かれる訳じゃないって事が。当り前だと思ってた事が、こんなに痛いなんてね。

 目の前に、いきなりニュッと手が出てきた。
 何事かと一瞬息を呑んだ直後に、パシンという乾いた音。
「……顔面直撃だ」
 真っ正面から飛んできたテニスボールを、手塚の手が受け止めていた。まさにリョーマの顔スレスレの位置だ。すみません、と慌てて駆け寄ってきた2年生に軽くそのボールを打ち返して、手塚はリョーマの顔を見る。
「何を呆けている」
「スンマセン……」
 アンタの事を考えていたとは、さすがに言えないが。
 飛んできたボールにも、手塚の気配にすら気付かなかった自分に叱咤したい気分で、リョーマは手塚から視線を外した。いいかげん、キワドイ処まできているような気がする。
「また調子が悪いと言うんじゃないだろうな」
 手塚の言葉に「ちがう」と言いかけて、リョーマは己の目の前に伸びてきた手に声を失ってしまった。
 額に当てられた、手塚の掌。
 その感触に、グラリと世界が回った。
「触んないで下さい」

 パシン。
 振り払ってから、しまったと思った。

 ほんの1ミリも変わらない手塚の表情。けれど、その眼差しだけが彼の驚きを物語っていた。
 言い訳のしようもない。
「頭冷やしてくるっス」
「待て、越前」
 逃げるようにその場を離れるリョーマは、手塚の制止などまるで聞こえていないかのようにスタスタと歩く。
「越前!」
 その声に顔を上げた乾を身振りだけで制して、手塚はリョーマを追いかけた。
「越前」
 誰の目も届かなくなってから、手塚はリョーマの肩を掴んだ。が、リョーマは再びその手を振り払う。
「不用意に触らないで下さいって!」
 しかし、そんなリョーマに負ける手塚ではない。払われた手をまたリョーマの肩に掛けると、手塚は強引にリョーマの身体を反転させて自分の方へと向かせた。
「一体何なんだ、お前は」
「別に」
「お前にそこまでされるほどの事を、俺がやったか」
「……」
 手塚自身に責はない。リョーマの個人的な問題だからこそ説明のしようもないのだが、手塚の姿が視界に入るだけで苦しくなるのはどうしようもない事実だ。
「言いたい事があるなら言えと言った筈だが」
 厳しい瞳。
 確かに理由もわからずに一方的に避けられるのは、手塚にとって不本意以外の何物でもない。知らないうちに何かをしでかしているのだとして、言わなければわからないというのも当然だ。
 けれど……。
「言いたい事なんて……とっくに言ったっスよ」
「何?」
 自分でもどうしようもなくて逡巡しているというのに、手塚はいつでも無遠慮に視界の中に飛び込んでくる。それはリョーマが無意識に手塚を視線で追っているのだから当然の事なのだが、今のリョーマにとって、それは不条理この上ない事実なのだ。
 全然こっちの気持ちになんて気付きもしないくせに。
 それでいて、いつでも妙に気に掛けてきて。
 そんなんじゃないと頭でわかっていたって、そうされたら平静でなんていられない。
 いくら自分を保とうと思ったって。

 目の前に立たれたら、もう目を逸らすしかできないんだよ!

「言いたい事なんて、言ったでしょ。好きだって」
「それはもう聞いた」
「聞いてたって、理解してなきゃ意味がないでしょ!」
 どこまでわかんないかな、この人は。
 同じ想いじゃないから解りようがないなんて。そんな風に一方通行を自分だけが思い知らされて。仕方がないなんていくら考えようとしたって、そんなのは無理。
 やっぱり、無理だよ。
「好きだって言ったよ。ちゃんと言った。あんたがわかってなくたって」

 後悔、するのかな。
 決定的にフラれたら。
 本当の気持ちを知っててもらった方がマシかどうかなんてわからないけど。
 少なくとも。
 ハッキリしたからって気分爽快、なんて事にはならないのは確かだけどね――。

 リョーマは手塚の肩に手を掛け、グイと引き寄せた。
 勢いで背伸びをして――一瞬のキス。
 そのまま至近距離で、手塚を見つめた。
「俺の"好き"は、こーいう、好き」

 シンと静まり返った一瞬の間の後で。
 手塚の手が、勢い良くリョーマの身体を突き放した。
 その衝撃に一瞬よろめきながらも器用に数歩退いたリョーマの瞳に映ったのは、驚愕に見開かれた手塚の瞳と、その表情。
「お前――気でも狂ったのか」
 手塚の言葉に、リョーマは笑う。

 やっぱりね。

 そうでしょうとも。
 どんなにあがいたところで、これが普通。
 本当にこれほど見事に典型的な反応もないし、これほど何も期待しなかった告白もないんじゃないかな――。
 なんてお手軽な――絶望。
「そうスね。きっと狂ってるんスよ。だけど、これが本当だから。俺は、部長が好き」
 もう何度言ったろう。心の中で、何度も何度も叫んできた。
「部長に何かしてもらいたい訳じゃないっス。だけどもうね、放っておいて下さい。俺だっていいかげん何しでかすかわからないし。近寄らない方が色々平穏に済むっスよ」
 言い募るリョーマの前で、手塚は、ピクリとも動かない。
 もう二度と、この人に触れる事さえもかなわないだろう。
 リョーマは静かに、手塚に背を向けた。
「ちゃんと言いましたからね。んじゃ」
 そのまま歩き出しても、今度は追いかけてきたりしない。
 コートに向かって歩き出したリョーマは、これまでにないほどの無表情を保っていた。
 あまりに滑稽すぎると、笑いも涙も出てこない。

 これで、満足?
 心の中で響く声。
 本当に滑稽で救いがないのは、今のこの状況ではない。
 それでもまったく変わる事のない自分自身の心だと、リョーマは思う。

 繰り返し繰り返し、今も胸の内で叫ぶ己の声。
 俺はね。
 あなたが。



 ――あなたが スキ なんです――




<< BACK     TO NEXT >>






ソラ ノ アオ TOP