UP20011121
ソラ ノ アオ ― 4 エンドルフィン
きっちりと玉砕した方が、まだマシだったのかな。 だけどそんな勇気はないよ。 それがどれほど痛いものであるか、見当もつかないけどね。 手塚の態度は、あれからまったく変わらない。 本当に、リョーマの事をそうとは意識していなかったという事だろう。 こればかりはどうにもしようがないな、とリョーマは思う。事実、自分だってちょっと前までは、手塚の事をどうとか具体的な言葉にして思ってはいなかったのだから。手塚の事を責められた身分ではない。 いくら好きだと告げたところで、確かにちょっとあの言い方ではわかり辛かったかもしれないとも思う。けれど、他にどう言えばいいのかわからない。 仕方がないと思う。 いや、仕方がないと、思っていたけれど――。 「元気ないねえ」 不意にかけられた言葉に、リョーマは驚いて側方に目を向ける。 いつのまにか、自分のすぐ隣りに陣取っていたのは不二。 まったく気付かなかった。 「何かあったの?」 「別に……」 どうも、この先輩は苦手だ。 何時もニコニコしているだけに、手塚とは別の意味で真意が読み取れない。時折見せる真摯な眼差しを目にするたびに、実は手塚よりも質が悪いのではないかと密かに思う時もある。 「練習キツイ?」 「別に……」 「伸び悩んでるのかな?」 「別に」 「恋煩い?」 「何なんスか、あんたは」 鬱陶しい、とでも言うようなリョーマの視線にも、不二はただ笑っているだけ。こういうところが手におえないような気がする。 「いやね、最近、練習は凄く頑張ってるようなのに、その合間にはそんな風に呆けてる事が多いみたいだからさ。乾もそんなような事言ってたし」 あ、でも前からそうだったかな、などと、不二はアハハと笑いながらリョーマをからかうような調子で言い募る。こちらもリョーマに負けず劣らず言いたい放題だ。 なるほど、とリョーマは思う。 乾にも不二にも悟られている、という事か。 具体的な事情はどうあれ、心身の不調はどうにも隠し切れていないらしい。自分が甘いのか、彼らが敏感すぎるのか。 「ねえ、不二先輩」 「何?」 「その時は大丈夫だと思ってたのに、後になってどんどん痛みが増してくる事ってあります?」 リョーマの言葉に、不二はキョトンとなって彼を見返してくる。 何故不二にそんな事を言おうとしたのか、リョーマにもわからない。何かしらの答えを、不二に期待しているのだろうか。 「んー? 例えば、手を切った時とかみたいに?」 不二の問いかけ。 言われてみれば、そんな時もあるかもしれない。傷を負った時には大した事じゃないと思うのに、大抵その傷は時間を置いて痛みを主張してくる。そういえば、この前腕を擦り剥いた時も後の方が痛かったっけ。 「痛みは身体の危険信号だからね。本人が気付かないままで大変な事にならないように、身体は痛みで教えてくれるんだよ。だから、後になってそれが出てくるのは、大抵はその痛みが引いてない時か、よほどその痛みが大きかった時か」 「……ふーん」 「どこか、怪我でもしたの」 「別に……たとえばの話っス」 「そう?」 不二は、それ以上何も聞いてこない。気にしていないというよりは、すでに何かを悟られているのかもしれないが。 手塚に何とも思われていないんだと知った、あのやり取り。 あの時は確かに『仕方がない』と思ったのだ。 想うようには想われない事だってある。むしろそういう事の方が多いと思う。わかっていた筈なのに、その事実は今になって時々チリ、と胸を焼くのだ。あの時の事を、何度も何度も思い出す。今の方が、確実に大きな痛みを伴って。 好かれたいから好きになる訳じゃない。 でも、好きだから好かれたい。 どんなに悔しくても、思い通りにならない事を『当然』なんて言葉で受け流したりはできないのだ。下手なプライドや自分らしさなんて、全てが無に帰してしまう。 人を好きになるのは、存外にみっともない。 せめて、その場で諦めて気持ちのリセットができれば良かったのに。 好かれてないのなら、じゃあいいや、なんて。 俺ももう好きじゃないよ、なんて思えたら。 その方が、ずっと楽だったのに――。 おっそいなあ……。 部活終了後、とっくに制服へと着替えてしまったリョーマは、一緒に帰る約束をしている桃城をひたすら待っていた。 「自転車取りに行くのに何分かかってるんだか」 帰りに何か奢ってくれるって言うからこうして待ってるってのに。 そうでなくとも、今日の練習もハードでヘトヘトなのだ。 リョーマは、誰もいない部室の隅でベンチに腰掛けたままぐるりと室内を見渡した。 そういえば今日は、部長は委員会とかでいなかったんだよな、と思う。 彼がいなくて良かったのか、悪かったのか。 あの姿を見ているのも辛い、なんて傷心に浸るつもりはない。けれど、例えほんの少しでも、痛みを伴うのは事実で。そして何より怖いのは、自分はそんなに大人しい人間ではない、という点だ。 これ以上どうしようもない、という事は誰よりもわかっているつもりだ。けれど今も胸の内でくすぶり続ける熱は、リョーマの感知しないところでいつ暴走するかわからない。だから、いつも目の前にいたら、手塚に対して何をしでかしてしまうかも予想がつかない。 どんなに平気なふりをしようとしたって、自分は、そんなに物分かりの良い人間ではないのだ――。 人から見下されるのは、嫌いだった。 そういう人間は大抵打ち負かしてきたから、そうされたところで気になる事もそうそうはなくなってきたけれど、自分の実力もわきまえないままプライドばかりが先に立っている人間は、いつだってその鼻っ柱をへし折ってやりたいと思っていた。 けれど――あの人は、まったく別だった。 いつからなんだろう。 自分を見下ろしてくるあの瞳を、心地良いと感じはじめたのは。 あの人を見つめるために、顔を上げる事が苦にならなくなったのは――。 ピタピタと頬を叩かれて、リョーマはわずかに覚醒した。 いつの間にか浅い眠りに就いていたという自覚もないままに、うっすらと瞼を上げる。 目の前に覆い被さるような、誰かの影。 「ぶちょ……?」 無意識に呼んだその名に、頬を叩いていた手がピタリと止まった。 一瞬の間。 そうしてそっと、その手が前髪を撫でてくる。 そのあまりの心地良さに、リョーマは再び目を閉じた。 夢に見ていたその姿を、もう一度追おうとするかのように。 規則正しく揺れる身体の感覚に、リョーマは再び覚醒した。 まるでゆっくりと歩いているような、身体の揺らめき。けれど、自分の足は地面を踏んではいない。 目の前にあるのは、誰かの肩、だった。 誰かに背負われているらしいと、ぼんやりと理解する。しかし、まだ完全に覚醒していないらしい。 「……誰……」 「俺だ」 耳元で答えたその声で、リョーマは瞬時に覚醒した。 「部……」 部長、と言いかけたが、しかしそれは上手く声にならない。 自分を背負って夕闇の道を歩いているのは、誰であろう手塚その人だった。 「何で、俺?」 大混乱のリョーマ。 何故自分は、この人に背負われている? 今まで何をしてたんだっけ。確か部室で桃先輩を待って? 「調子が悪かったのなら、何故それを誰にも言わずに部活に出たりする。無茶をすれば良いというものじゃないだろう」 叱咤するような手塚の言葉。 調子が悪い? 誰がそんな事を言ったのだろう。 少々へこんではいたものの、体調が悪いという事は無かった。確か部活が終わった後、そうだ、自分は桃城を待ちながら、おそらくうたた寝をしてしまったのだろうと思い至る。 「桃先輩……」 「桃城は帰った。自転車がパンクしていたそうだ。大石がそれを聞いて部室に向かったところでお前を発見した、という事だ」 そこへ手塚登場、で、巻き込まれたという事だろうか。 「どうして、部長が?」 「後から大石も来る。お前と俺と、自分の分の荷物を抱えてな」 うひゃあ、と思う。 あの荷物を、三人分。 「すいません……」 とりあえず、謝ってみる。 「謝罪は良いから、体調を万全にする事を考えろ」 「……」 本当に、具合が悪い訳ではないのだが。 誰がそんな事を言ったのかは知らないが、こんな機会はそうそうない。この背中から降りるのはあまりにもったいない気がするから、リョーマは黙って背負われている事にした。 「部長、恥ずかしい?」 とはいえ、何となく会話に困って、そんな事を呟いてみる。何しろ中学生が中学生を背負って公道を歩いているのだ。 「恥ずかしいな」 にべもない手塚の言葉。 それでもすでに覚醒しているリョーマを降ろそうとしないところが、手塚らしいといえばそうなのだろうか。 好きだな、と思う。 好きだ。 ねえ部長。 あんた気付いてないみたいだけど。 こんなに、こんなに好きなんだよ。 でも、こんなホントの思いを知ったら、今度こそあんたは俺を突き放すんだろうね。 だから今は言えないけど。 あんたが思うのと全然違う形で、俺はあんたが好きなんだよ――。 「越前?」 肩にかかった重みに、手塚は背中に向かって声をかける。 再び意識を飛ばしてしまったらしいリョーマの前髪が、ざらりと頬にかかった。 その柔らかさは、まるでリョーマの無防備さを象徴するようで。 「大した度胸だな」 先輩に背負われていると知って、それでも降りようともしないあたりとか。 まあ、今回ばかりは仕方がない。 手塚は、その小さな身体を軽く背負い直して、再びゆっくりと歩きはじめた。 「さて、と」 大石は、バッグをふたつ背負うと、残りのひとつをよいしょ、と抱えた。 「これは、早く二人に追いつかないと結構恥ずかしいな……」 鞄持ちゲームに負けた小学生のような自分の姿に、苦笑を禁じ得ない。 「優しい大石副部長、やっと気がついたみたいだね」 側方からの突然の声に、大石はその方向を振り返る。 部室のドアにもたれるように佇んだ不二が、いつも通りに微笑んでいた。 「不二……」 「不調だ、なんて嘘までついて手塚に越前君送らせてさ。何だか大石っぽくないじゃない」 「……」 大石といえど、手塚を騙すような言動は、本意ではなかったけれど。 「あんな姿を見せられたらつい、さ」 夢うつつのままに手塚の名を口にしたリョーマ。 頬に触れた自分の手をかの人のものと感じたのか、その瞳は優しく細められたまま。 あんなリョーマの姿は。 これまで誰も、多分本人でさえも、目にした事がないのではないだろうか。 いつも大石が目にしていた、手塚を見つめる時のあの眼差しの強さは。その愛おしさを覆い隠していた、情熱の強さなのだと知った。 「あんまり、不器用だから」 見ているこちらの胸が痛くなるほどに。 「何があったのか、細かい事までは知らないんだけどね」 不二は、呟くように言葉を紡ぐ。 「ねえ大石。エンドルフィンの効果って、心にも作用するものなのかな」 「エンドルフィン?」 オウム返しに聞き返す大石に、不二はゆっくりと頷く。 「簡単に言えば、脳から分泌される痛み止め成分、てとこかな。例えば骨折した時とかね。その痛みが大きければ大きいほど、身体を痛みから守るためにそれは速効で発揮される。だからあまりにも大きな怪我をした時には、最初は痛みを感じない事が多いんだ」 そうする事で、気の狂うような痛みから、一時的に身体の持ち主を守るのだ。 けれどその効果は、そう長くは続かない。 その効力が失われて行くと共に、身体は痛みを徐々に訴えかけてくるのだ。早くその傷を治して欲しいとでも言うように。 不二に問い掛けた、リョーマの言葉。 ――『その時は大丈夫だと思ってたのに、 後になってどんどん痛みが増してくる事ってあります?』 「越前君、とても深い傷を負ったんじゃないのかな。そのあまりの大きさにブロックがかかって、自分でも気付かないくらいに」 おそらく、いや確実に、それは手塚に関して。 「エンドルフィン――か」 大石は呟く。 心の傷に作用するエンドルフィン。そんな事もあるのかもしれない。 だとすれば、その砦が崩れはじめた今、この先リョーマの心は痛くなっていくばかりなのではないだろうか。 それはどんな辛さだろう。 「どうにもしようがないけどね」 小さな不二の呟き。 「ああ……どうにもできない」 大石も、それに頷く。 これが手塚とリョーマの問題である限り、二人はただ傍から見守っている事しかできないと、痛感してはいるけれど。 「越前君は、乗り切る事ができるのかな」 手塚と、リョーマと、ふたりの気持ちの行く先は。 不二の呟きは、夕闇の空気の中へと静かに吸い込まれていった。 |