UP20011118
ソラ ノ アオ ― 3 恋心
ハードな練習の合間のわずかな休憩時間。 コート隅の金網によりかかってユニフォームの中に風を通していたリョーマの視界の隅に、誰かがヒラヒラと手を振っているのが映った。 副部長、大石だ。 「越前」 どうやらこちらに来い、という事らしい。 にこやかな大石の隣には、相も変わらず仏頂面の部長手塚。一体何を言われるのやらと肩をすくめながら、それでもバックレる訳にもいかないから、リョーマはトコトコと二人の傍に近寄って行く。 「越前、これを見てみろ」 大石は、ノートサイズの紙を一枚手塚の手から引き抜くと、それをリョーマの目の前に差し出す。その上方の隅には『越前』という走り書き。 「何すか、これ……」 「乾にデータとってもらったり、色々な。メニューの消化率とか基礎練とか、そういうのを総合して個人に提示してるんだけど」 「へぇ」 相変わらず、マメなクラブだ。 妙な感心をしているリョーマに向かって、今度は手塚が口を開いた。 「越前の場合、抜きんでた瞬発力や技術に対して筋力が不足している。身体的に負担がかかってくる前に、その辺のレベルアップを考慮したメニューを取り入れて行く」 身体の出来上がりきっていない現状のままでプレイを続ければ故障につながると、つまりそういう事だろう。 「ヘーイ」 とりあえずといった感じでリョーマが返事をすると、手塚はそんなリョーマの右腕をひょいと持ち上げる。 「傷は治ったようだな」 数日前の、擦り傷の事を言っているらしい。 「全然平気でス。そんなに大した事じゃないっスよ」 多少の跡はまだ残っているものの、痛みはまったく無い。リョーマにしてみれば『たかが擦り傷』としか思えないから、どうにも大袈裟に心配されているような気がしてならない。 「なめてかかるなと言った筈だが」 「あ、でも越前、本当だぞ。化膿でもしたら結構酷い事になるんだからな」 ステレオ放送。 人がいいのかおせっかいなのか。 「だからちゃんと先輩に見せたでしょ? 平気っス」 リョーマは、右腕を掴む手塚の手を左手でやんわりと解いた。 「まあいい。じゃあ越前、悪いけど桃を呼んできてくれるかな」 にっこり笑う大石に逆らう人間は、あまりいない。リョーマは了解した、とでも言うようにひらりと手を振ってその場を離れた。 トコトコと歩いて行く後ろ姿を見送りながら、大石は静かにため息をつく。 「やっぱり、怖いような気がするんだけどなぁ……」 「……何か言ったか」 思わず呟いてしまった言葉に、大石は自分で驚いてフルフルと首を振ってしまう。 手塚を見る越前の顔がだ、とは、とても言えない。 「別に……」 大石は何事も無いというように、当たり障りの無い笑顔を手塚へと向けた。 リョーマは右手首をじっと見つめる。 やっぱり……だ。 好き、なんだよね。 手塚は強い。 その強さと統率力でもって周りをぐいぐいと引っ張って行くその人に憧れる人間は多い。だから、もしかしてそういう事なんじゃないだろうかと考え直していたりもしたのだ。好きは好きでも、憧れとか、尊敬とか。 だけどやっぱり、違う。 リョーマは手塚に触れられた右手首を、そっと左手で包み込む。 触れたいと、思うのだ。 触れられると嬉しい。具体的にどうと聞かれると困るが、何というか、手塚の事を鷲掴みにして、他の何からもシャットダウンしてしまいたいような。こういうのを独占欲とかいうのかもしれないが、なんだか良くわからない。 近くに寄ると、妙な胸騒ぎがする。 うっかり手を伸ばしそうになる。 この腕で抱きしめたり、抱きしめられたりしたらどうなるんだろう、なんて――考えてみたりする。すでにそれは、未知の世界。 でもつまり、これは完璧に『コイゴコロ』な訳だ。 「困ったモンだね」 リョーマは呟く。 自分の気持ちを否定するつもりはさらさら無い。しかし何が困るのかといえば、手塚からこの想いと同じものをそっくりそのまま返してもらえる可能性が皆無に近い、という事だ。 完全な、片想い。 だって、どうすればいいというのだ。 この想いを打ち明けたとして。まあ確実に手塚を困らせる事になるだろう。そうでなければ、完全にシカトか。どちらに転んだとしても、状況はあまり良いものとは言えなくなる。これから先、しばらくは部活動で顔を合わせなければならない訳だし、少なくとも一年近くは同じ学校の先輩と後輩なのだ。その間を、お互い気まずい思いで過ごさなければいけないという事で。いや、下手をすればその先もずっとだ。 それに耐え続けられるのか? それとも隠し続ける事に、耐えるのか。 どちらを取っても結論はひとつ。自分ひとりが馬鹿みたいだ。 いつか熱が冷める時を待つという方法もあるだろう。けれど、現在進行形で胸の内にあるこの想いが冷める瞬間なんて、今のリョーマには想像すらできない。 どうにもならない。 だって――『思う』事は、誰にも止められないのだ。 独りで考えていても、満足な結論なんて得られる訳がない。事が事だけに、どんどんいやな考えに没頭して行くだけだろう。それに、元々リョーマはこういう事を考えるのが得意な方ではない。 「やーめた」 リョーマは天を仰ぎ、ひとり上手になる前にその思考を止める事にした。 それにしても。視線ってのは、不必要なまでに正直だ。 リョーマは思う。 気付けば、手塚の姿を追っている自分がいるのだ。 部活動での練習中の姿。偶然廊下ですれ違う時。外を見下ろす窓から遠い場所にその姿を捉えた時でさえ。 その後ろ姿や横顔をひっそりと目に焼き付けている自分に呆れ返ってしまう。けれどふとした拍子に手塚がこちらに目を向けた時には、すぐに視線を外す事しかできなくて。 「越前」 逃げるように顔を背けた途端に声を掛けられて、リョーマは内心ドキリとした。 「俺に何か言いたい事でもあるのか」 ……さすがにバレようというものだ。 目が合うたびに逸らされる視線。しかも振り返るたびに目が合うのだから、手塚が不審に思うのも当然の事だろう。 「……別に、何でもないっス」 「とてもそうは見えないが」 それはそうだろう。 「仏頂面で訴えかけてないで、言いたい事ははっきりと言ったらどうだ」 仏頂面とはご挨拶な。 しかし事実だ。リョーマが真剣な眼差しでものを見るという事は、そのつり目がちな瞳から発せられる鋭い視線で対象を射抜くという事だ。そしてお世辞にも、リョーマの目つきは優しいとは言い難い。手塚から見たリョーマの表情は、自分に対して何事か物申す、といった感じに映っているのだろう。 気まずい事に、ここは誰もいない部室の中である。遅くなってから忘れ物を取りに来たというタイミング上、他の人間がひょっこり現われるという事はなさそうだ。 残っていたのが大石あたりなら良かったのに。 ――そういえば、明日は朝練ないんだっけ……。 その気軽さから、大石は手塚に部室の鍵を預けて帰ったのだろう。 「不満か意見でもあるなら言っておけ」 これが恋慕による視線だとは、まったく思い至らないらしい。 リョーマは、心の中でため息をつく。 「不満なんて……ありありっス。鈍感、朴念仁」 自分も人の事を言えた義理では無いという点はさて置き、リョーマはそれだけをボソリと呟いた。 「……どういう意味だ」 「そのまんまっス。気付きもしないんだもんね」 「……」 人がらしくもない想いに翻弄されている時に、不満や意見とは何事か。ほんの少しくらい、何かを察してくれたって良さそうなものだ。テニスでは、こういう事の数十倍反射神経が鋭いくせに。 本当に、自分が馬鹿みたいじゃないか……。 「部長なんか嫌い」 そんな言葉も出てしまう。 沢山の人間からの好意を一身に受けているくせに、少しも動じず、気にもしない。こういう時に相手がどんな事を考えているのか、もう少しわかってくれても罰はあたらないと思う。 それなのに。 「……そうか。なら仕方ないな」 手塚から発せられたのは、そんな言葉だった。 ――ちょっと。 「何それ……」 「嫌われているのなら仕方が無い。これ以上聞いても、無駄だろう?」 素直すぎる。 呆れるリョーマを尻目に、手塚はその身体の向きごとリョーマから視線を外した。 ……そうだよ。この人は、こういう人なんだ。 今に始まった事ではない。 こと対人関係において淡白だから、人の言う事なんててんで気にしない。いや、何事か思うところはあるのかもしれないが、相手の事を尊重しているつもりなのか、決して深入りをしようとはしない。 わかっていた筈だ。 わかっていて、好きになったのだから。 つまらない言葉ひとつで、関係を御破算にする事もないだろう。 ――我ながら、まだまだだとは思うけど。 「部長!」 リョーマは、背中を向ける手塚の制服の裾を掴んだ。何事かとリョーマを振り返る手塚の瞳を、じっと見つめる。 久しぶりに見た、正面からの手塚の顔だ。 「うそ。キライなんて嘘っス」 「……越前?」 だって仕方が無い。 相手は、手を伸ばして待っていてはくれないのだから。 「俺は、部長の事、好き」 「……」 「あんまりわかってくれないから、嫌いって言っただけ」 「……」 手塚はただ、リョーマの顔を静かに見つめる。 そして、一言だけ。 「……そうか」 …………。 て、あのね。 「それだけ?」 「何?」 「それだけなのかって聞いてるんス。俺は部長の事が好きだって言ってるんスよ。部長は? 俺の事、どう思ってるの?」 「……」 無言の手塚を、リョーマは根気強く待つ。 「他人の事を好きとか嫌いとか、具体的な言葉で考えた事はあまりない」 「……」 唖然。 口をあんぐりと開けてしまいそうな、奇妙な間。 そうだ。それが当然だ。 今のが愛の告白だなどと、普通の神経の持ち主なら思わないのだろう。それでなくともリョーマの言動は、その真意が至極伝わりにくい。 しかしそれでも、そうと意識して誰かの姿を追っている場合、わかろうとするだけに相手の気持ちにも自然に気付くものである。 そう。 相手の事を何とも思っていないから――気付かないのだ。 そりゃあそうだ。仕方ないよね。 端から、期待をかけていた訳ではない。そんなに上手く行く筈もないし、何よりも、この手塚が相手なのだ。変に勘ぐられて、跳ね除けられなかっただけマシだと思わなければ。 「だが越前。好きだと言うのなら、始終睨み付けているのはどうかと思うが」 …………。 ……完敗。 もうどうしようもない。 リョーマは手塚の言葉に深く深くため息をついたが、苦笑を浮かべながら鈍感な先輩の顔を見返した。 「すいませんでした。悪気があった訳じゃないっスけど、もうそーいうのは、やめます」 それだけ言うのがやっとだ。 そんなリョーマの素直な言葉に、手塚は微かに驚きの表情を見せた。 「帰りにジュース奢ってくれたらね」 「調子に乗るな」 付け足されたリョーマの言葉を受けて、その頭をポクンと叩く手塚。 「ケチ」 悪戯っ子のようにリョーマは笑う。 その想いの全てを、リョーマはその胸の内へと強引に仕舞い込んだ。 うやむやになった言葉。 これ以上、どうこうできるものでもない。 膨大なリスクを背負って手塚を落とそうなんて、そんな大それた冒険ができるほど、リョーマは器用でも利口でもない。 ずっとこのままでいられるのかどうかなんてリョーマにはわからない。けれど、ハッキリしている事が、ひとつだけあった。 どうしようも、ないけれど。 それでも。 それでもやっぱり、手塚の事が好きなのだ――と。 |