UP20011113
ソラ ノ アオ ― 2 be born
「けどホント、手塚部長ってすごいよね。練習見てるだけでため息でちゃうよ」 テニスコート内でトンボを走らせながら、カチローが目を輝かせた。 「いつでも余裕! ってカンジだもんなぁ〜〜」 堀尾も続く。 相変わらず私語の多い同輩達を適当にかわしながら、しかしリョーマもまた手塚の姿をその脳裏に蘇らせた。 二人だけの試合の後には、手塚が再びその実力を全開に出しきるような展開にはついぞお目にかかっていない。手塚は実に器用に、相対している相手の実力によってきちんと力を使い分けている。それなりに強い相手には、それなりの力を。決して相手を見くびる事はないし、手を抜いているのとも違う。けれど、大概において力量が違いすぎるのは、違えようもない事実だ。 彼がその情熱を露にするには、今いる世界は狭すぎるのではないか――。 突然、グイと腕を掴み上げられて仰天した。 斜め後方からリョーマの右腕を掴んだのは、手塚である。 たった今まで思考の大半を占めていた人物の出現に、一瞬目を見開いてしまう。触れられるまで気付かないほどに深く考え事をしていたなんて、不覚だ。 「部、長?」 「擦りむいている」 ポカンとしているところにそう言われて右手首あたりを見てみれば、半ば上着に隠れた手の甲の下あたりが派手に擦り剥けて、結構な量の血が滲んでいた。メニュー消化中のラリーでのスライディングが原因か。気付きもせずに上着を着込んでしまったあたり、リョーマは我ながら鈍感だと感心してしまう。 「ちゃんと洗って、大石あたりにみてもらえ」 それだけを言って、手塚は手を離した。 「大した事ないっス」 この程度の事は日常茶飯事だとタカを括ったリョーマの言葉に、手塚は微かに目を眇める。 「駄目だ。小さな傷をなめてかかるな。自分の身体への細心の配慮も、全力で取り組む事のひとつだ」 相変わらず、言う事が細かい。 ――正論ではあるけれど。 「……あんたって」 リョーマはつと、頭ふたつ以上高い手塚の顔を見つめた。 「あんたってさぁ。何でそんなに一生懸命なの」 唐突に、そんな言葉が口をついて出た。 予想しなかったリョーマの言葉に、手塚は一瞬目を見開く。 「そんなにまでしてあんたが目指してるのって、何?」 「……お前には言われたくないが」 どういう意味だ。 まるで答える義務はないとでも言うように視線をさまよわせた手塚だったが、すぐにリョーマの方へと向き直った。 「わからないか?」 そんな手塚の、自分を見下すような仕草が気に入らない。事実見下ろされているのだから仕方がないのだが。 「どっか……遠いところ?」 わからないと答えるのもシャクなので、当てずっぽうに言ってみる。 「そう見えるか」 「あんたの視点が高すぎて、距離が計れないんスよッ! どうせ俺はチビだからね」 目指す場所を見据える視点と身長差はこの場合まるで関係ないが、どこを見ているのか分からないという事実を揶揄して、リョーマは言い放った。八つ当たりのようにも聞こえなくはないが。 眉間に皺を寄せたリョーマの言葉に、手塚は一瞬キョトンと目を見開いたようだった。これが菊丸や桃城あたりであったなら、確実に大笑いする場所なのだろうが、手塚は相変わらず表情の変化に乏しい。しかし、ごく稀にリョーマに対して見せる微かな表情の変化は、見ていて悪い気分になるものではない。むしろ、もっと見せて欲しいとすら思う。 普段変化に乏しいからこそ、小さな変化が特別に思えるのだ。 変えているのが自分なら、なおさら。 なんで手塚にこんな事を問い質しているのか、リョーマは自分でもわからない。けれど。 あの時自分を強烈に射抜いた眼光。 あんなのは、初めてだ。 見る人が見れば、恐怖心すら覚えるものなのかもしれないが、あんな瞳を、いつも見ていられるものならば。 ……? いや、何かそれは、違うような気もする。 なんだ? 「そんな余裕はない」 静かな手塚の声に、リョーマは我に返った。 「は?」 再び手塚に焦点を合わせると、ポンと腕を叩かれた。 早く片づけて大石のところへ行けと言いたいらしい。 「部長?」 リョーマの呼びかけも意に介していないというように、手塚はその場を離れ、ゆっくりと歩き出した。 「すぐ目の前だ。……目指しているのはな」 後ろ姿の手塚から、そんな声が聞こえた。 「ナニソレ……」 リョーマは苦笑してしまう。 今はここで、これからの大会を勝ち抜いていく事しか考えていない、という事だろう。 とんでもなく遠いところを見つめているような顔をして、ほんの近くしか見ていないなんて。本当に読めない男だ。 もっともっと、知りたくなるくらいに。 部室に戻ると、リョーマは手早く水に濡らした手を、無言のまま大石の目の前へと突き出した。部室でひとり制服を着込んでいた大石は、そんなリョーマをしげしげと眺めてしまう。 「なんだ、凄いな……。手塚あたりに言われたのか?」 クスリと微笑む大石。 さすが青学の母という珍妙な称号を持つだけあって、無言で差し出された手を見ただけで、彼は大体のところを理解してしまったらしい。 「待ってろ。消毒してやるから」 そう言って、大石はすでにきちんと閉じられた自分のバッグのファスナーを再び開いた。 「お節介っスよ……見かけによらず」 リョーマが憮然として呟くと、大石は再びクスクスと笑う。 「あれで結構いろんなとこ見てるんだよ。ホントは誰よりも、お前たちの事気にしてるよ」 傷口にスプレーを吹きかけられて、リョーマは一瞬顔をしかめた。 「越前はもう知ってると思うけど、あいつは本当に情熱家で融通が利かないんだ」 リョーマに対し極秘に試合を申し込んだ手塚。 大石も最初は、際立って有望なリョーマを育てるためにそれを強行したのだと思っていた。 それもあるかもしれない。 けれど多分、ただ単に手塚はリョーマと試合をしたかったのだという事が、後になってわかった。テニスを好きな者なら、きっと誰だってそうだろう。心に抱く情熱を掻き立てる凄まじい魅力が、リョーマのテニスにはある。 「けど、あんなに先走った手塚は初めて見た。驚きだよ」 シンと水をたたえた静かな湖面のような手塚の心を、リョーマの投げた小石が波立たせた、と言ってもいいのだろうか。だとすれば、手塚から放たれる、光にも似た闘気がリョーマの心を震わせたとしても、それはおあいこという事だろうか。 「自分にも他人にも厳しくて懸命なだけなんだ。嫌いにならないでやってくれよ」 「……は?」 大石の言葉の意味を図りかねて、リョーマは思わず間抜けな声を上げてしまった。 「きらい? ……そう見えます?」 「違うのか? だっていつも、怖い顔で手塚の事を睨んでるから」 ――あの試合のせいで手塚の事を怒っているのかと思った。そう言って大石は苦笑した。 目付きが良くないのは生まれつきだ。 けど、そうだったのだろうか。 睨んでいるつもりはなかったが、傍から見てもわかるくらいに、自分は手塚を視線で追っていただろうか。 ぼうぼうに燃え上がりこそすれ、あの試合の結果が不本意だったという事は絶対にない。 「じゃあ越前は、手塚の事どう思ってるんだ? 嫌いじゃない?」 「どうって、別に嫌いなんかじゃ……」 何気ない大石の問いかけに、リョーマは我知らず逡巡した。 どう思うって。あらためて聞かれても、そんな事は具体的に考えた事もなかった。最初の頃、苦手意識はあったと思うけれど――今はどうという事もないし。これまでのわずかな期間で、手塚の色々な面が見えてきて、その度に不可思議な感覚にとらわれてはいたけれど……。 好きか嫌いかと問われれば―― リョーマの中で、何かがストンと落ちた。 なんだ。そうか。 手塚の見つめる場所を見極めようとするたびに。鋭い眼光を目にするたびに、それをいつも見ていたいと思う反面、何か違うような感覚に囚われていたのは。 逆に、お手軽に披露して欲しくなかっただけ。 言いかえれば、独占したかったのだ。 力強い光を放つ眼差しも身体も、時々ちらりと見せる情熱もすべて。 自分だけに、見せて欲しかった――。 なんだ。 なあんだ。 好き、だったんだ――。 大石に送り出されて部室を出てから、リョーマはひとりで夕闇の景色の中を歩いていた。 「部長の事が、好き」 声に出して呟くと、嘘のように心の中で整理がついた。 いつも余裕で無表情のまま、本音を読ませない鉄面皮。そんな綺麗な姿勢を崩さない彼に、ずっと惹かれていたのだ。そして時々そこからぽろりと零れ落ちる感情のかけらを、大切に拾い上げて。ずっとその懐に仕舞い込んでいた。 なかなか見つけ出す事のできない宝物のように。 「……趣味悪いね」 自嘲気味に呟いてみる。 お世辞にも、付き合いやすいとは言い難い気難しい先輩。自分も人の事を言えた義理ではないから、到底相性がいいとも思えない。 けれど、だけど、傍にいたいと思ってしまった。 ずっとその隣で、あの人のいろんな事を知って、そして何よりも、あのまっすぐで力強い眼差しを、いつも真っ正面で捉え続けていたい。 それに本当は、ちょっとだけ、優しいのだ。 リョーマの腕を掴んだその手は、ラケットを握るのとは違うやわらかさをたたえて。 気付く人間は少ないだろうけど、今はすべてに向けられているそれを、他よりも多く自分に向けてくれたらいいなと。ちょっと前の自分が聞いたら笑い転げそうな事すらも考えてしまう。 あの人の全てに対する、独占欲。 気付いてしまったらもう、否定のしようがなかった。 「その気もないけどね」 呟いて、紫がかった空を見上げる。 くっきりと思い描く事のできる手塚の姿は、不思議なほどに、いとおしいものだった。 だからといってこれからどうすればいいのか、そんな事は到底見当もつかなかったけれど。 今まで自分の中に存在すらしなかった新しい感情は。 それによってまるで生まれ変わったような気分になる事は。 案外に悪い気分じゃない事を、リョーマは今、初めて知ったのだった。 |