UP20011113
ソラ ノ アオ ― 1 心の行く先
彼の顔を見るのは、無駄にムカつく。 仲たがいしている訳でも、普段から特に険悪なムードだという訳でもない。そもそも個人的な付き合いがある訳じゃないから、険悪にもなりようがない。 好きか嫌いかと問われれば――キライでは、ないと思うのだけれど。 じゃあ何が、気に入らないのかな? とにかく、何を考えているのかわからない。 口数の少ない鉄面皮は、そこに内包している本心の一切を、見せようとはしない。 きっと相当であるはずのテニスの実力だって、今は全然、見当もつかない。 ――好きになりようもないよね。 リョーマは、重い身体を引きずって部室のドアを開けた。 「グラウンド10周、終わりマシた」 いささか拗ねたような響きを込めながらも、リョーマはそこに鎮座していたテニス部部長に一応の報告を済ませた。居残りでペナルティを受けている部員を最後まで待っているのだから、律義といえばそうなのかもしれない。しかし、部員を走らせたりしなければ、部長の負担も減少するだろうにというのは、言いっこ無しなのだろうか。 「ご苦労だった。さっさと着替えろ」 長テーブルに向かって部誌にペンを走らせていた手塚は、一瞬顔を上げてそれだけ言うと、また手許へと視線を落とした。 自業自得の居残りに、同情の余地もないという事か。 いいかげん、慣れた。 こんなやり取りに慣れてしまうほどペナルティを受けている事にこそ問題があるのかもしれないが、手塚は何故かこういう時に何事かを言った事がない。 走らずに済むようにシャンとしろ、とか、遅刻をするな、とか。 罰を受けるだけ受けて、もう勘弁してくれと自主的に態度を正す事を望んでいるのだろうか。もっとも、罰を受けた上に説教までされるのではかなわないから、別に現状に疑問を抱いたりはしないが。 やけに小さく感じるシャツの袖のボタンを留めながら、リョーマはハフ、と小さなため息をついた。 「疲れているようだな」 急に掛けられた声に、驚いて振り向いてしまう。 いつの間にか手塚は、顔を上げてリョーマを見つめていた。相変わらず、動作に気配がない。手塚から声を掛けられるのも、珍しい現象だった。 「……えー、まあ」 疲れるなという方が無理だ。 こんな事で強がっても仕方がないから、リョーマは素直に頷いた。 「疲れるのは良い事だ。良く眠れるし、食欲も出る」 度が過ぎなければ、の話でしょ。 「だから、朝起きられない事もあるが」 ――すいませんねえ。 それって、慰めのつもり? それとも戒めたい訳? 「もっとも、それをやり過ごせるだけの体力作りは、将来的に必要だがな」 何が言いたいんだろう。 さっぱりわからない。 「部長は、ヘトヘトになるほど一生懸命っスか?」 何となくといった感じで、目の前の先輩に訊ねてみる。単なる好奇心だ。 「当然だ。少なくとも、部活動での練習は」 嘘ではないだろう。見ていればわかる。普段、黙るか怒鳴るかしかしていないように見えるこの人も、自分が練習に参加する時は全力を出しているのが傍目にもわかる。 ――『部活動での練習は』。 「じゃあ、試合は?」 手塚が誰かと対戦する姿を目にする事は、そんなに多くない。 「――今は、全力を出せるような状況じゃない」 そうでしょうとも。 メニューの中で時折組まれる対戦でラケットをふるう手塚は、到底本気になっているようには見えない。 案外、正直じゃないか。 相手にとって、不足アリアリって訳? それとも、他の要因があるのか。そんな事は知らないけれど。 リョーマは思う。 この人とテニスで対戦したら、どんな事になるんだろう――。 リョーマの手塚への印象は、ある瞬間を境に一変した。 非公式に組まれた、二人だけの試合。ひとりを除いてほぼ負け知らずだった自分が完膚なきまでに叩きのめされた、その瞬間に。 嘘だろう? そう思った。 強いだろうとは思っていた。だから、相当に本気でやらなければ苦戦を強いられるだろうという事も。けれど。 強いなんてもんじゃない。全てにおいて、他と違いすぎる。 戦いたいと思っていた。ずっと。 それがどういう訳か、相手の方から試合を申し込んできたのだ。渡りに船とはこういう事だろう。けれどふたを開けてみれば。後に残ったのは、表現しようもない焦燥感。わだかまりと言ってもいいかもしれない。想像を絶するような至上の強さを、彼はどこに隠し持っていたというのだ。 ずるい。 そんな風に思った。 それと同時に、リョーマは気付く。 あれから時々、我知らずに微笑んでいる自分。 実に上手い具合に、彼は自分の闘争心に火を付けてしまったらしい。それはおそらく、すべて計算ずくで。 なんて男だ。信じられない思いで、時々彼を盗み見る。まんまと彼の手の内で躍らされていると自覚して、そのとんでもない器量に感心してしまう。微かな苛つきと共に。 「まったく、たまんないよね」 もともと、テニスでなければいけない理由なんてなかった。 いつも自分を見下している小憎たらしい『あの男』を倒すのに、彼の土俵を選んだだけだった。それだけのはずだったのに。 強くなりたい。 何よりもテニスで、強くなりたい。 そしていつか、今は到底かなわないあの人と、また戦いたいと思っていたのだ。いつのまにか。その為なら、立ちはだかる人間なんていくらでも相手してやる、とさえ思った。ふいにあの時の彼の、あまりにも綺麗なフォームが鮮明に思い出されて、脳裏から離れなくなってしまう事もある。我ながら驚くほどの変化だ。 だからこそ気付く。時々見せる、何かを思い描いているような彼の深い眼差し。 その瞳は、どこを見据えているの? 相変わらず無表情に見える裏にどれだけの情熱を隠し持っているのか、リョーマはもう知っている。 考えてみれば当然だ。 わざわざ学校のクラブに所属して、部長まで務め上げているくらいだ。彼だってテニスが好きなのだろう。単に、それがわかり辛いだけだ。 けれど、そんなにもテニスに情熱を注ぐ人が、常に全力で戦えないというのはどうなんだろう。楽しさも半減、なんて事になっていないのだろうか。 自分と戦った時、手塚は本気だった。それは間違いない。 どんな目的があって、非公式に計画まで組んで自分とラケットを交えたのか、それは知らない。けれど、この自分を相手に本気になった手塚。それがどれだけ貴重な時間であったかが分かるから、それについては何となく嬉しさも感じてしまう。 けれど、その後の手塚を見るにつけ、なんだか分からない妙な感覚にもとらわれてしまうのだ。 この人は、現状に満足しているのかな。とか。 はたと、リョーマは思考をストップさせる。 何を考えているんだか。そんな事は、別に自分が心配する事じゃない。 「ねえ」 リョーマのふいの呼びかけに、彼の隣でメニューの記録を付けていた手塚は小さな後輩を見下ろした。 「なんだ」 部活時間中に珍しくリョーマから声を掛けられて、手塚は一瞬の間の後で反応を返してきた。 そんな様子が、何となくおかしい。 「……いや、いいっス」 俯いたリョーマに、手塚は顔をしかめる。 「用もないのに声を掛けるな」 ごもっとも。 けれどリョーマ自身、手塚に何を言いたくて声を掛けたのか、わからなかった。我ながら、訳のわからない行動を取ったと思う。 前方を見据えていた瞳が自分の方に向き直った時点で、すべての思考は吹っ飛んでしまったのだ。まるでその事だけが、目的であったかのように。 変なの……。 自分の行動を冷静に判断しながら、リョーマはお気に入りの帽子を目深に被り直した。 心の中で、何かが忙しなく動き回っているように感じる。硬い殻を破って、光に向かって手を伸ばそうとしているような。 隣りに立つ人の存在をやけに大きく感じて。 リョーマはそっと、そこから外した視線を辺りにさまよわせた。 |