UP20021008

proof of love 3





 昼の休憩の時間となり、対局は打ちかけとなる。
 それまで完全に対局に入り込んでいたヒカルは、それを知らせる合図の音にパッと顔を上げた。そこに、対局中の厳しい表情は微塵も無い。
「緒方先生、来てるかな――」
 すでに頭の中は、その事でいっぱいだ。
 午前の対局の事などすっかり頭の中から振り払ってしまったかのようにいそいそと対局場を出て行くヒカルの姿に、その場にいた和谷と伊角は顔を見合わせた。
 そういえば対局直前に、今日は弁当を持ってきてもらうとか、そんな事を口走っていたっけ。
 一体誰にという以前に、なぜそんな事をする必要があるのかと疑問に思ってしまった二人だが、ついつい好奇心のままに、ひっそりとヒカルの後を追ってしまう。
 そんな二人も気付かない後方で、さらにアキラまでもがヒカルの動向を気にしていた。それだけ、今日のヒカルは挙動不審だったのだ。彼もまた、密かにヒカルの後へとついて行った。

 急いで靴を履いて、そろりと通路を覗き見るヒカル。なにをそんなに緊張する必要があるのかといった風情だが、ヒカル的に、一世一代の大勝負が待ち構えていたりするのだ。
 緒方に弁当を持ってきてもらう事。ヒカルの最終目的は、そこではない。
「あっ――」
 ヒカルの視線の先に、ちょうど緒方が現れた。
「緒方先生!」
「おう」
 ヒカルの後方でその様子を覗き見ていた伊角、和谷、そしてアキラは、言葉を失った。ヒカルに弁当を持ってくるはずの御人は、あの緒方? ヒカルと緒方の関係を知っていてもなお、そんな事はまさかないだろうと思っていたというか、思いつきもしなかった。相手が相手だけに。
 現れた緒方がその手にぶら下げているのは、ヒカルが頼んだ弁当が入っているであろう四角いポーチ。
 本当に、持ってきてくれた。
 実際のところ、ヒカルに不安が無かった訳ではない。無理矢理に一方的に依頼したのだ。呆れた緒方が本当にそれを実行してくれるかどうかなど、その時になってみなければわからない。
 けれど、一度約束した事を違えるような人ではないという事も、ヒカルはわかっていた。
 それが彼の、希望の光だ。
 ヒカルが待っていた、弁当を携えた、緒方の姿。
 自分のために。緒方が。
 やっぱりそうだ、この人だ。もう、この人しか――。
 ヒカルは思わず、その場に立ち竦んだまま数メートル先に立つ緒方を見つめて叫んだ。
「緒方先生――!」
「なんだよ」
 その場でたじろぐ緒方。


「お、俺の――お嫁さんになって下さい!」


「――……」

 し――――ん。
 静まり返る、その空間。
 後方の三人は、ぽかんと口を開けたまま、ストップモーション状態になった。
 緒方もそこに立ったまま。
 どこぞの漫画か何かのように、手に持った弁当を取り落としたりはしない。その身体はポーチを握り締めた形のまま、既に固まっていた。
「な……」
 わなわなと震える声。
「何言ってやがんだ、てめーはッ!!!」
「だって緒方先生、弁当持って来てくれたじゃんか! 他の誰にだってそんな事しないだろ? 俺だってあんな事頼むの、緒方先生にだけだよ!」
「だからって何で!」
 ヒカルの理屈がわからない。
「どう頑張ったって、法律上婚姻届は出せないし……でもそんなのなくたって俺たちずっと一緒なんだって、そう思ってて欲しいし思ってたいから!」
「生物学上、俺が嫁になるは無理だ!」
 嫁とは、女がなるものだ。
 緒方のこの理屈もここでは少々的外れだが。
「俺だって迷ったんだよ! 弁当にしようか、味噌汁作ってもらう方にしようか」
「迷うな!!」

 早い話が、緒方と自分の結びつきを確たる物にするためにはどうしたらいいかと考えあぐねた末に、大混乱を来たしたヒカルが辿り着いた結論がこの暴挙なのである。
 二人の関係は、正式に公に認めさせる事はできない。
 だから、この人は自分のものなんですと胸を張る事も叶わない。
 けれど、本当に欲しいのはそんな物じゃない。そんな風に自信を持てるだけの想いの強さとその証。目には見えなくてもそこにある、確かな形。
 結婚するってのは、ちょっと違う。何だか違うような気がする。お嫁さんになってもらう。そんな言葉が、しっくり来るような気がした。どう違うのかと周りは思うかもしれないが、ヒカルなりに出した結論なのだ。
「何で俺がお前の嫁にならなきゃなんねーんだよ!」
「だって俺、男だから……」
「俺だって男だ!」
「……! そう、だけど……。だよね……」
 まるで今はじめて知ったかのように、ヒカルは呟く。
 ヒカルは自分が男であるが故に『嫁になってもらう』事しか思い付けなかったのである。
「だけど俺、俺は」
 ヒカルは、ふらりと一歩足を進めた。
「俺はただ、緒方先生に、俺だけのものになってほしかったんだよ――!」
 ヒカルが叫ぶのと同時に、ひとつの影がスッと動いた。
 ひとかたまりの三人の中から、金縛りの解けたアキラが抜け出してヒカルに駆け寄ったのだ。
 後方からヒカルを羽交い締めにして、その口を手で塞ぐ。
「こんな人目のある所で何を考えてるんだ、君は――!」
「と、塔矢! はなせよ!」
 後ろから自分を押さえつけるアキラの手に、ヒカルはもがいた。
「無茶にも程がある! まったく君は……ッ」
 その場から動けないままに成り行きを見守っていた和谷が、額に手を当てた。
「あちゃ〜、もしかして、俺のせいかなぁ……」
 和谷のそんな言葉に、伊角は目を見開いて彼を見つめる。
「和谷、何かやったのか!?」
「う〜ん、ちょっと……」
 和谷が先日の事をかいつまんで説明すると、伊角はようやく合点が行ったというように深い溜息をつき、和谷と同じように額に手を当てた。
「だってなんかさ、すげえ淡泊そうに見えちまったからさぁ」
 伊角は再びはあ、と息をつき、和谷の肩に手を乗せる。
「進藤はああ見えて、もの凄く情熱的だよ。何に対してもさ」
「あ、なんだよ伊角さん。その『俺はすべて理解してます』みたいな顔は!」
「本当の事だよ。仕方ないじゃないか」
 はは、と伊角は笑う。
 そう、そんな情熱を持って、ヒカルはここまで歩き続けてきた。そんな彼の強さを、伊角は羨ましいとさえ思っていたのだ。しかし事が事だけに、さすがのヒカルもどうにも解決できないでいるらしい。
 だが相手は緒方なのだ。時をおかずして、彼が何らかの形で収めてくれるだろう。

 そうこうしているうちに、とりあえず息を整えた緒方が手に持ったポーチをズイ、とヒカルの目の前に突き出した。
「とにかく弁当だ。食え。そしたら午後は対局に集中しろ」
「緒方先生……」
「終わったら迎えに来てやる。……話は、それからだ」
 緒方のそんな言葉に、ヒカルは曖昧に頷いた。
 やはり年の功か、強引にまとめるのが上手い緒方である。




 ヒカルを先に玄関に入れ、緒方はそのドアをバタンと閉じた。
「……」
 ヒカルは無言のまま、空の弁当の容器をキッチンの調理台の上に置く。
「うまかったか?」
「うん……おいしかった」
 緒方は一切手を加えていないのだから、まずかろうはずも無いが。
 緒方もそれきり口を開かず、空になった容器をシンクの中に放り込む。
「……怒ってる?」
「なんでそう思うんだ」
 淡々とした会話。
「塔矢には怒られた。TPOをわきまえろって。緒方先生に恥かかせるような事するなって」
「……何があった?」
 緒方はヒカルに背中を向けたまま。
 ヒカルは、そんな緒方の背中に視線を送り続ける。
「だって俺――」
 余裕で笑っていたい。
 いつでも、緒方が誰といても、どんなに離れていても。
 緒方の気持ちを疑った事もないし、自分の気持ちはなおの事。けれど、緒方と自分の事に対し、胸を張る事ができない。自分に自信が持てない。もしも自分と張り合おうとする誰かが現れたとしたら、自分は勝てないような、そんな気がする。
 そんな自分が嫌で、でもひとりではどうにもできなくて。
 目茶苦茶になって、緒方との絆を確かなものにするという事に頼った。
「まったく――お前は」
 緒方は振り返った。
「進藤、来いよ」
「……緒方先生?」
 腕を組んで、緒方は流し台に体重を預ける。
「俺は、いきなりお前に『お願い』されてわざわざ弁当なんか作ったよ。時間こそかかったが、要は出来合いのものを詰め込んだだけの何の工夫も無いものだし、大して乗り気でもなかった。だがな」
「……?」
「お前、それを残さず食ったよな。うまかったって言った。……俺はさ、それが嬉しかったんだよ」
 緒方は寄り掛かっていた流し台から身を離し、その左手で目の前に立つヒカルの右手を取った。力を込めて、握り締める。
 それをグイと引いたら、ヒカルの身体は自然緒方の胸に寄り添った。
「本当にでかくなったな。ガタイばかり立派になりやがって」
「緒方先生……」
「俺がお前に与えてるもの。お前が俺に与えてるものに、もっと敏感になれよ。形の無いものは、タダじゃ見えてこねえんだよ」
 目に見えないものを求めて不安になるのでは駄目だ。形の無いものは、見ようとしなければ決して見えない。
「張り合おうとする奴が現れたら、闘えよ。負ける前から諦めるな。少なくとも、俺本人がいつもお前の味方なんだぜ。無敵だろ」
 自分だって、その時がくれば闘う。もしも、自分からヒカルを奪おうとする奴が現れたりしたら。
 絶対に、誰にだって負けない。
「とっくにあるんだよ。確かなものなんか。つまらねえ不安で目を伏せるな。口約束なんかじゃねえぞ。俺がお前にしてやる事、お前が俺にしてくれる事、ひとつひとつ、全部が『誓い』だ。見逃すな」
 不安な事なんか、何も無い。
 緒方は、胸に抱くヒカルの頬をサラリと撫でた。
「教えてやるよ。俺とお前の間にある、確かなものを」
 そうして、上向かせたヒカルの口唇に、己のそれを押し当てた。
「……――」
 何度か口唇を触れ合わせたあとで、やわらかなそれに親指を這わせる。あたたかい。
「おが……あ――」
 緒方の名を呼びかけて開いたヒカルの口唇を、再び塞いだ。
 ヒカルはキュ、と目を閉じる。
 自然に解かれた歯列を割り開いて、ヒカルの舌を絡め取り熱を与える。角度を変えて、何度も何度も。時々ピクリと反応するヒカルの指が緒方の袖を強く握り締めても、長い口接けは終わらない。
「ん、ん……」
 時折零れる小さな声すらも逃さないとでも言うように、隙間無く合わせられる口唇。口腔の奥から漏れる濡れた音に、ヒカルの背筋に痺れが走る。
 ヒカルは、己の肩を掴む緒方の腕の強さでかろうじて立っていた。
 強引なまでに与えられる熱さ。
 これが緒方の、想いの強さ――。
 自分へと向けられる、想いの強さ。

 ようやく口唇が離れて、緒方の瞳がヒカルの顔を見つめる。初めてであろう長く深いキスに、ヒカルの目許はうっすらと紅に染まっていた。
 ヒカルの肩を掴んでいた腕をふと緩めると、ガクガクと震える身体は力を失い、ズルズルとその場に沈み込んだ。ぺたりと膝をついて、それでもなおヒカルは震えの止まらない腕を緒方の足へと絡み付け、その頬を摺り寄せた。
「先生、緒方先生……」
 何度も何度も緒方の名を呼ぶヒカルは、まるで至上の宝にそうするように、ただ緒方の足にすがりついていたのだった。




 そろそろ、送り届けてやらなきゃな……。
 緒方は、ぼんやりとそんな事を思う。
 最近はついつい長居になりがちなヒカルを、家に泊める事も多くなってきた。緒方自身はそれでもまったく構わなかったし、ヒカルの家族からもその事で不審の眼差しを向けられる事はなかったが、その度に逆にヒカルの母に余計な気を遣わせるのが心苦しい。やれおすそ分けだ世話になっている礼だとヒカルが何かを持ってくる事も少なくない。
 まったく、身近にあんなに美味い飯を作ってくれる人がいるくせに。
 ついつい蒸し返すような事を考えて、ひとり苦笑してしまう。
 ベッドのやわらかな弾力に身を沈めたまま、緒方は己のすぐ隣で枕に顔を埋めるヒカルの方へと視線を向けた。
 意識を飛ばしてしまったのか、力無く投げ出される細い腕。
 やはり、起こすのは気が引ける。
 しかしヒカルは、眠ってはいなかった。
 うつ伏せて眠っているように見えたその瞼が、微かに開かれていた。
 細めた瞳のまま、緒方を見つめるヒカル。その腕が、ゆるゆると伸ばされた。
 緒方の髪に、そっと触れる。
「細くて、サラサラ……」
「進藤?」
「こんな風に乱れるとさ、綺麗だよな……この髪」
 ヒカルは、笑った。
「緒方先生って、睫毛すごく長いんだ……目は切れ長でさ」
 こんなに綺麗な人が、こんなに近くにいる。自分がこんなにも幸せな人間だった事に、気付かなかった。こんな風に抱き合うまで、今までずっと。
 自分は幸せだったんだ。ずっと、ずっと。
 俺はこの人の傍で幸せなんだって、笑ってて良かったんだ――。

 緒方はクシャリと、ヒカルの前髪をかき混ぜた。
 綺麗なのはどっちだ。
 強い光を宿すその瞳に、通った鼻筋。やわらかな髪がかかるその頬の、幼かった頃の丸みはすっかり影を潜めて。
 本当に、いい男になったもんだ。
 寂しがりやのウサギは、たったひとりの人へと成長して行く。
 ――捕まえててやるよ。頼まれなくても、ずっと。
 緒方のそんな想いに答えるかのように、髪に触れていたヒカルの手が、緒方の首へとまわされた。
 肩に擦り寄るヒカルの頭を抱え込み、緒方は微かな息をつく。

 結局今日は帰せそうにないな、などとひとり考えながら。
 緒方は再び、ヒカルの滑らかな背を引き寄せるのだった。




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●あとがき●
おーがーたーーーッ!! とうとうやりやがったなーー!!
という誰もが入れそうなツッコミはともかくとして(おい)。話を書いている人間が一番コメントに困っている訳ですが(苦笑)。どうしましょうね。どうしましょう。本当は、単に緒方先生のお料理教室がやりたかっただけなのですが。そしてヒカルの幸せを追求するはずが、結局幸せなのは緒方さん。毎度の事ですが、一番暴走しているのは氷村です。どうしようもないものを書いてしまいましたね。ごめんなさーい。



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