UP20021008

proof of love 2





 事前に棋院から連絡を受けていた予定通りに、ヒカルは棋院会館に出向いた。
 今日は手合のある日なのである。
 今日は珍しく、知った顔が多く揃っていた。伊角に和谷、そしてアキラまでいる。しかしヒカルはその面子への挨拶もそこそこに、対局室の入口でしばらく考え込んでいた。
 どうしよう。どうしようかな。
 もうすぐ対局が始まる。チャンスは今しかない。
 やっぱり。どうしても。
 ヒカルは意を決したように、通路の隅へと身を潜めて、リュックの中から携帯を取り出した。

「……なんだ?」
 ヒカルからの着信を受けた緒方は、広げていた新聞もそのままに居間のソファにふんぞり返った。
「お前、今日は手合の日じゃなかったか?」
『……うん、これから。今棋院にいるんだけど』
「なんだよ」
 ヒカルが対局の直前に電話をよこすなど、初めての事だ。
『あのさ、緒方先生』
「うん」
『あの……』
「はっきりしろよ。時間ねえんだろ」
 眉間に皺を寄せる緒方。そんな様子が伝わったのかどうかは知らないが、ヒカルは黙ったまま逡巡しているようだ。
『……緒方先生に、お願いが、あるんだけど……』
「はぁ?」
 わざわざ対局の前に電話をしてきて、いきなりお願いとは一体どういうタイミングだ。
『怒らないでよ……?』
「話による」
『……』
「いいからさっさと言えって!」
 ヒカルは息を呑んだ。
 怒られるかな。呆れられるかも。だけど、ここまで言ってしまったのだ。今さら後には引けない。

『……お弁当、欲しいんだけど』

「は?」
 素っ頓狂な、緒方の声。
『今日のお昼、緒方先生のお弁当が食べたいんだけど!』
 半ば自棄になって、ヒカルは電話の向こうで叫んだ。
「はああ!?」
 だれが、なにをくいたいって?
 緒方の言語中枢、崩壊。

 緒方先生のお弁当が食べたいんだけど。
「何言ってんだお前! 昼飯なんざそっちで頼むかどこかに食いに行きゃいいだろ!」
『それじゃ駄目なんだよ! 今日は俺……!』
 あまりにも懸命なヒカル。
 しかし何が哀しくて、食い物にあぶれているわけでもない人間にわざわざ昼飯など届けてやらなければならないのだ。しかも――しかも?
 緒方先生の。
 もしかして、そう言ったか?
「何で俺が作らなきゃならねえんだよ!?」
『緒方先生に作って欲しいんだよ! そうでなきゃ意味がないんだってば! ……お願いだから……』
 今にも泣き出しそうなヒカルの声。
 一体何故こんなに深刻になって、この男は人に弁当なんぞを頼んでいるのか。第一、誰に物を言っているのかわかっているのか。
 心底謎だ。
「理由を言え」
『……緒方先生、頼むから……』
 それ以上、何も言わないヒカル。どうやら、今理由を聞き出すのは無理らしい。
「お前なあ……」
『お願い!』
「……」
 言わない理由。
 けれど、理由はあるはずだ。
 ヒカルが『お願い』などと口にする事は、滅多に無い。滅多に無いだけに、そこには何か深い理由があるはずなのだ。緒方には推測不可能な、何か。
 よほど、彼にとって何か深刻な事態になっているという事は間違い無い。
 ならば、答えはひとつだ。
「……あとで、理由話せよな……」
『……緒方先生!』
 ヒカルの声が、一気に跳ね上がった。
「昼頃に持ってってやる」
 はああ、と深い息をつきながら言葉を吐き出す緒方。しかし、電話の向こうのヒカルはそんな緒方にお構い無しで嬉々としていた。
『緒方先生、ありがとう! すっげえ嬉しい!!』
 はいはい。
 緒方はもう、そんな相槌くらいしか返す言葉を見つけられなかった。




 投げやりに電話を切ったあとで、しかし緒方は悩んでいた。
 奴が何を考えているかは知らないが、約束してしまったものは仕方が無い。仕方が無いのだが……手製の弁当。どうやって作れば良いのだ。
 緒方は時々自宅でヒカルに食事を振舞ったりしていたが、家での食事と弁当では、明らかに事情が違う。それに、いわゆる手製の食事とは言っても、緒方も本格的に料理ができるわけではない。
 普段ヒカルに出していたものといえば、シリアル、トースト、カット済みの野菜サラダ……ドレッシングだけかければOKという代物だ。最近はレンジで簡単に調理できるものも数多くあるし、そうでなくともちょっと火を通すだけで楽々簡単調理なものもまた多い。出来合いの惣菜だって、味の良いものは探せばいくらでもある。
 そう、手作りとはいっても、まともに包丁や鍋を使う事などほとんど無い。男の手料理なんて、そんなモノだ。
 しかし、弁当?
 するってえと、あれか。
 蓋を開けると中にはくるくる巻いた卵が入ってたり、デミソースたっぷりのハンバーグがあったり。あまつさえ真っ赤なたこウインナが幅を利かせてたり、そぼろとかで飯に名前なんて書いてあったりするあれか?
 ――長い事手製の弁当に縁の無い緒方、大分知識に偏りがあるようだ。

 そんなのを、どうやって作れというのだ。
 ぐるぐるぐるぐる。
 緒方の思考はまわる。
 やろうと決心したが最後、いっそ愉快なほどに真面目に構えてしまうのは、自身の性格か、はたまた相手がヒカルであるがゆえか。
「――そうか」
 緒方はヒョイと顔を上げた。
 サンドイッチとか。
 突然思い付いた単語に、緒方の顔は自然と笑いの表情になる。
 あれなら、要するにパンに何かを挟むだけだ。余計なおかずはあまり作らずに済む。うん、なかなか良いアイデアなんじゃないか?
 良く店で見掛けるサンドイッチはそれこそ色々なトッピングがあったりして豪勢なものだが、別にそんなモノでなくて構わない。ハムとチーズでもあれば充分だろう。あとは食パン。それなら、今家の中にあるもので間に合う。
 緒方はいそいそと、パンとスライスチーズ、そしてハムをテーブルに並べた。

 で?

 この後、どうしろと?
「……」
 パンにハムとチーズを挟んで、半分に切ればいいのかな。そういうものか?
 材料を前に、手も足も出ない緒方。
 信じられない話かもしれないが、作った事がないというのはこんなものだ。
「どうすりゃいいんだ……」
 たっぷりと悩んでしまう緒方だが、グズグズしている訳にもいかない。
 散々悩んだあげくに、緒方は電話に手を伸ばした。
 これだけはやりたくなかったが、仕方が無い……。約束は約束だ。
 何度も己の中で言い訳を繰り返す。
 意を決した緒方は、知り合いの女流棋士の番号をゆっくりとその指で押した。

『はあ、サンドイッチの作り方……ですか?』
 なんでまた、という彼女の言葉に、思わず泣きが入りそうになる。
「その、どうしても、必要に駆られる事情があって……」
 自分がそれを作るためだなどと、とてもではないが口にできない。妙な噂でも立てられたらとんでもない事になってしまう。
 しどろもどろに言葉を交わして、何とか彼女に曖昧に納得してもらう。
『サンドイッチって、具材の作り方から、ですか?』
 そこから教わっていたら、昼に間に合わないどころか日が暮れてしまう。
「いやそこはカットして……」
 そういう事なら、と彼女は説明をはじめた。
『オーソドックスなサンドイッチの作り方ですけどね、パンはできるだけ薄切りのものを使用して下さいね。その片面に、マーガリンか何か、油のものを薄く塗って……』
「……マーガリン?」
『ええ、バターか、モノによってはマヨネーズでも。具材から出る水分がパンに染み込んでしまうと水っぽくなってしまいますから、それの防止に』
「……」
『そして具材をなるべく均等の厚さになるように挟んだら、そのパン全体をラップに包んで休ませるか、何か平らなもので軽く重しをして落ち着かせて下さい。パンと具材が一体になるように。そうしてしばらく待ってからみみの部分を切り落として……』
 ちょっと待て待て待て。
 もしかして、思っていたよりもかなり手間のかかるものなんじゃないか?

 親切に教授してくれた女流棋士におざなりに礼を述べ、さっさと電話を切ってしまった緒方は、電話をかける前よりも深く悩む。サンドイッチが簡単だと思っていたのは、自分の誤解であったのか? 自分はもしかして、サンドイッチを愚弄していたか?
 ちょっとこれは、自分で作れる自信が無いぞ。
 ――侮りがたし、サンドイッチ。

 何も、彼女の言うサンドイッチの作り方が必ずしも王道ではない。他にいくらでもやり方はあるし、手の抜きようもある。が、作り方を知らない緒方は、もちろん手の抜き方も知らない。彼女の言う事を鵜呑みにするしかないのだ。
 結論。サンドイッチは、無理だ。
 じゃあどうすりゃいいんだ!
 パンを抱えたまま、キッチンの中をうろうろと歩き回る緒方。
 サンドイッチよりも簡単なものが、何かあったか。
「そうか――」
 二度目のひらめき。
 緒方はピタリと足を止めた。
「サンドイッチが駄目なら、握り飯があるじゃないか!」
 弁当といえば、王道は握り飯。かどうかは知らないが。
 思わず手をポンと打ってしまう緒方。別に誰も見ていないのだから、どんな奇行をやらかすのも勝手だが。
 握り飯といえば、飯だ。梅干しだ。海苔だ!
 またしても貧困な想像力を大放出する緒方は、しかしはたと考え込んだ。
「……海苔……あったかな……」
 海苔で巻かない握り飯だって普通に存在する。という事はともかくとして、どうやらこの男、弁当作りのためにひとっ走り買い物に出ようという気はさらさらないらしい。すべて家の中にあるもので済ませるつもりだ。
 しかし、それよりもずっと次元の違うところに問題はある。
「飯がねえだろ!!」
 独り言炸裂。
 頭を抱える緒方の目の前に鎮座する炊飯ジャーの中には今、炊いた飯は存在しない。
 米が無い訳ではない。無洗米があるから、これから炊くのも簡単だ。が、いかんせん時間が無い。さすがに飯が無ければ、握る事もできない。
 いや待て。
「たしか、冷凍庫にえびピラフが……」
 レンジでチンか、フライパンで軽くあぶれば出来上がりという手軽なアレだ。
 ピラフだって、にぎれば立派な握り飯。
 ふたたび、ひとり笑顔になる緒方。
 ピラフがあるならそれをそのまま弁当容器に入れればもっと簡単なのだが、緒方の思考はすでに握り飯ひと筋に絞られている。融通の利かない男だ。
 早速緒方は冷凍庫からピラフの袋を取り出し、中身を耐熱容器にぶちまけてレンジに突っ込む。電子音の合図でそれを取り出して軽く冷まし、意気揚々とその中に手を突っ込んだ。
「……」
 にぎれない。
 白飯でないうえに具の入り混じっているそれは、ボロボロと崩れて当然上手い形にまとまらない。緒方にとっては大誤算だ。そもそも緒方、素手で飯をにぎる時は手を湿らせるという知識すらない。
 というか……。
「俺は三角に、飯をにぎれたか……?」
 三角である必要は、まったくない。が、色々と追いつめられている緒方は、その事に気付かない。握り飯は三角。それが今の緒方の中の定説だ。
 まともに飯を握った事の無い人間が、ピラフを握れるはずも無かった。

 どうすりゃいいんだ! 俺!!

 本日、何度目かの心の叫び。
「俺をこんな道化にして楽しいのか、あいつは!」
 いや、ヒカルもさすがにここまでは予想していなかっただろうが。

 自棄になった緒方は、おもむろにラップを取り出した。広げたそれの上に握りこぶし大のピラフを乗せ、そのまま巾着のように絞り上げる。その絞り口を、手近にあったモールでくるくると結んだ。二個三個と、そんな巾着を作り上げる。
 これでいい、これで。食う頃にはこの形で固まってるだろ、多分。
 適当に納得した緒方は、それをひとまとめにしてから、また動きを止めた。再び何かを悩んでいるようだ。
 そう、いくらなんでも、これだけでは淋しい。
「たしか――」
 今日の昼にでも食べようと思っていたパスタサラダが、冷蔵庫に入っていたはずだ。緒方はそれを取り出して、手ごろなプラスチック容器にそれを移した。が。
「……野菜が足りないよな……」
 ふたたび深い世界に入り込んでいく緒方。
 野菜室からレタスを取り出し、それをバリバリとむしる。別の容器にそれを敷き詰めてから、先程のパスタサラダをそこに移し替えた。
 本当に、手際が悪い。
 まあそれは仕方が無い事として、緒方は更にそこにプチトマトを2、3放り込んで、パチンと蓋を止めた。
 それから棚をあされば、ヒカルのために買い置きしてあったミックスフルーツの缶詰が出てくる。ヒカル本人のもとに持っていくためなのだから、勝手に開けても多分怒ったりはしないだろう。
 緒方は缶詰の水分を切って、それもまたプラスチックの容器に詰め込んだ。
 それらをひとまとめにしてポーチに仕舞い込み、フウ、と大きな息をつく。
 こんなもんだ。
 一方的に弁当作りを要請してきたのだから、これで文句は言わせない。とりあえず腹も脹れるはずだ。うん。

 自分でも気付かないうちに、恐ろしいまでに可愛らしい弁当を作り上げてしまった事に、緒方はまったく気付いていない。

 ともあれ、どうにかこうにか弁当作りは完了した。
 作業行程を考えるとなかなかに笑えるものがあるが、当の本人は気にもしていない。何しろ突っ込む人間もいないのだ。何気に自分で調理したものがひとつも無いという事実も、自分が食べる訳ではないからどうでもいいし。
 ひとつの事を成し遂げた達成感に、緒方はしばしその身を委ねるのだった。




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