UP20021215

冬があたたかいうちに





 冬が寒いのは、当たり前の事だけれど。

「毎日寒いよねえ」
 呟くカチロー。
「ほんっと、いやになるよな〜、明日なんてさ、この冬一番の寒さだってゆーじゃん。学校来るの辛いよなぁ〜」
 そして堀尾。

 青学の冬休み。
 今日も白い息でぼやきながら、準備体操にいそしむ一年生ズ。
 放課後の部活動であるならそれでもまだマシなのだが、早朝からの練習はさすがの運動部の面々でもかなりこたえる。朝っぱらから、どうなるかわからない明日の心配までする堀尾は、いくらなんでも大袈裟かもしれないが。
「身体動かせば、いやでもあたたまるんじゃないの……」
 相変わらず愛想のカケラもないまま、彼らの横で上体を捻りながらリョーマが呟いた。
「そうかもしれないけど……リョーマ君、さすがだなあ」
 感嘆の溜息を洩らすカチロー。
 いつもながら、つまらない事で感動できる素直な子だ。
「別に……」
 大袈裟に昂揚するカチローの言葉に、リョーマの方は、彼とはまったく別の意味で溜息をつくのだった。

 実際のところ、リョーマは冬の寒さをあまり感じてはいなかった。
 正確には、この冬になってから、の話であるが。
 自分でも不思議だった。
 日本で迎える冬は久しぶりだ。正直、日本にいなかった頃の冬は、確かに今よりも厳しい事が多かったようには思う。気候の差というヤツだ。
 けれど。
 吐き出される白い息。
 建物の隙間を駆け抜けてくる、肌を刺すほどに冷たい風。
 それらが容赦なく襲いかかってくる冬という季節は、どこと比べるまでもなく、自然身を震わせるものだと思うのだけれど。
 何故かリョーマは、それを『寒い』『辛い』と感じなかった。
 なぜだろう。

「今年って、暖冬とかいうヤツっスか?」
 リョーマは、隣を歩く長身を見上げた。
 逆にリョーマを見下ろしたのは、いつものごとく寡黙な先輩、手塚だ。
 この時期の三年生はすでに部活動は引退しているが、模試があったり補講を受けたりと、何かと忙しい。そうでない日は部活動を眺めに来ていたりもするから、休みに入ってからも、ほぼ毎日学校に来ている事になる。
 今日も手塚は、リョーマが部活動を終えるのを待っていたのだ。
 こうでもしなければ、本当に彼らは共通の時間を持つ事が出来ない。
「なんだ、いきなり」
「……いえ」
 手塚の反応に、あんまり寒くないから、と、リョーマはひとりごちるように答えを返す。
「暖冬という事はないだろう。むしろ例年よりも早いうちから冷え込んでいるという話だ」
「ふーん」
 それならば尚更、なぜ、と思う。
 それとも、こんなモノなのだろうか。単に日頃鍛えている身体のせいで、寒さには強くなっているとか。
「寒くないと思うのは勝手だが、そろそろ手袋くらいしたらどうだ」
 手塚は、未だ素肌を晒したままのリョーマの手許へと視線を落とした。
「手袋?」
 ヒョイと顔の高さまで手をあげたリョーマは、自分の掌をまじまじと眺める。この冬になってから、手袋はまだ一度も使った事が無かった。
「冷やして痛めたらどうする」
 手塚はそのリョーマの手を取った。自分の手よりも、ほんの少しだけ冷たい指先。
「部長だって手袋してないじゃん」
「今日はいつもより暖かいからだ。お前は毎日だろう。明日から特に寒くなるらしいぞ」
 昨日今日で大した差はないと思うけど……と言ってみたところで会話に進展はないので、とりあえず黙っておくリョーマ。その代わりのように、リョーマは手塚の手を握り返した。
「じゃあ部長があっためてよ」
「バカ言うな」
「フフン」
 ホンの冗談でしょ、と笑いながら、リョーマはその手を離した。さすがに、男子中学生が路上で睦まじく手を繋いで歩くというのは、冬でなくとも寒い光景だ。
 そのまま二人で歩きながら、手塚はふと気付いたように口を開いた。
「越前。明日から三日間、俺は学校に行かないぞ」
「へえ。そうなの?」
 母親と一緒に遠方の親戚の家に行かなければならない事を、手塚はリョーマに告げた。用事自体は一日で済むから本当ならば一泊で帰ってこられるのだが、久しぶりであるからついでに観光したいという母親を置いて、ひとりで帰ってくる訳にもいかない。いつも時間の無かった手塚が母親に付き合えるのも、この時期くらいだ。
 中学生の手塚が家族サービスというのも、変な話かもしれないが。
「ご苦労な話っスね……」
 まるで自分の事のようにぼやきながらも、リョーマは何かを訴えるような視線を手塚に向けた。
「……みやげか?」
 その視線に、鋭い反応を示す手塚。
 リョーマは笑った。
「食えるものがいいな」
 ニヤリとするリョーマの言葉に、手塚は呆れたようにその頭にポンと手を置くのだった。




 珍しく目覚ましの音無しに目を覚まして、リョーマははてと言った面持ちであたりを見回した。別段、いつも通りの自室の風景だ。けれどなんだか、いつもよりも特に寒いような気もする。
 しん。
 静かな空間に、音にならない音を感じたような気がした。
 何気なくカラリと窓を開けて、リョーマは微かに目を見張った。
 ――雪だ。
「へえ……」
 この冬初めての雪。
 降り始めたばかりなのか、積もる気配は未だ見せないが、はらはらと降り落ちてくるそれは、乾いた地面に落ちて、微かな風に流れる。
 だから寒かったのか、とリョーマは思った。
 というか、ここ三日ばかり、やけに寒さを感じていたような気がする。降るだろうと言われていたものが、ようやく降り始めたか、といった感じだ。

 手塚が学校に来なくなって、今日で三日目。

 彼に言われていた事を思い出した。
 なるほど、確かに寒くなったよね。
 実にきっかり、手塚が学校に来なくなったその朝から、リョーマは登校時に手袋をし始めたのだ。ようやく、人並みの感覚に追いついたのだろうか。
「部長は、寒がってないかな」
 手塚がどのあたりの親戚の家に行ったのかは知らない。ここより南なら、まだ暖かいのかもしれないが。
 東京はもう寒いよ、と。
 リョーマはその場にいない手塚に向かって呟いてみた。




 それから部活の時間が終わるまで、パラパラと降ったり止んだりを繰り返していた雪は、その間隔のせいで派手に積もる事はなかった。部活が中止にならなかったのは何よりだが、青学テニス部の面々はかなりぼやいていたようだ。中途半端に降る雪の中での部活動は、確かに少々辛いかもしれない。

 部活帰りの道を歩きながら、リョーマはふと、そろそろ手塚も帰って来る頃かな、と考えた。今日帰ってくるという話だが、もちろん昼とも夜とも聞いていない。
 今、雪は止んでいる。
 けれど、やはりこの陽気のせいか、午後になっても寒さが身にしみる。厚く覆う白い雲のせいで、陽の光は隙間無く遮られたままだ。
 大して変わらないと、思っていたはずなのに。
 細い道から大通りに差し掛かる角に出たところで、急激に襲ってきた側方からの圧力にリョーマは一瞬目を細めた。
 ビュウ、と音をたてて通り過ぎた、一陣の突風。
「寒……ッ」
 柔らかな前髪を撫で上げて通り過ぎた冷たい風に、目を細めていたリョーマはゆるゆると瞳を開いた。その風の来た方向を見据えて、目を見張る。
 風の通り道を遮るものは、何も無い。
 寒い。
 寒い、のは――。

 違う。違う。そうじゃない。
 なんだ、そうか。そうだったんだ。
 暖冬なんかじゃなくて。リョーマが他人より感覚が鈍いのでもなくて、特に寒さに強い訳でも、なかった。

 何故かリョーマはひとり、ふわりと微笑みを見せた。
 そして。
 その表情のまま、リョーマは踵を返して帰路とは別の方向に駆け出した。

 やけに見通しの良かった通りの角。
 いつもいる場所に、手塚がいない。
 どんな風が吹く時も、それを遮る場所で、手塚がいつも盾になって。
 体温を分け合うように、肩を並べて歩く。
 この冬の寒さを感じなかったのは、いつもそこに手塚がいたからだ。
 手と手を触れ合わせる――あなたが。




 肩を上下させて荒い息をつくリョーマは、部活帰りの格好のままで手塚の家の前にいた。
「部長……部長!」
 白い息を吐き出して、手塚を呼ぶ。
「部長!!」
 手塚が帰ってきているかどうかわからないとか、インターフォンを鳴らさなければ家の中までは声が届かないのではないかとか、リョーマは微塵も考えなかった。
 ただ、会いたいその人を。

 しかし手塚は、いた。
 玄関に程近いところにいたのか、リョーマの声に反応して、その姿を現した。
「……越前?」
「部長!」
 玄関の戸を開いて姿を見せた手塚に、リョーマは勢い込んで飛びついた。
「越前!?」
 全体重をぶつけてきた小柄な後輩のタックルに体勢を崩しかけた手塚は、冷え切った素肌の掌で両頬を包まれて、顔をしかめた。
「お前、また……」
「部長!」
 そして滅多に見せない満面の笑顔で抱き付かれて、手塚は面食らう。
 何があった?
「あんたがいないせいで、寒かったんだよ」
「? 何だって?」
「なんでもない」
 リョーマはただ、笑った。
 寒かったのは、雪のせいなんかじゃなかった。
 アンタが傍にいたらね。ほらもう、こんなに――あたたかい。
 リョーマは勢いで伸び上がって、手塚の頬にちょこんとキスをした。そして他よりもほんの少しだけあたたかな、その口唇にも。
「越前……ッ」
「こうしてるとさ、部長だってあったかいでしょ」
 リョーマは、再び手塚を抱きしめた。
 手塚は訳がわからない。

 どうしようかな。あなたがいて、こんなに冬があたたかいなんてね。あなたがいるといないでこんなに変ってしまうなんて、今まで気付きもしなかったんだよ。
 じゃあ、だったら来年からはどうすればいい?
 今以上に一緒にいられない、来年からの冬。
 あなたに出会ってから初めての、一緒にいられない冬。
 変なの。まだ出会ってから、一年も経ってないのにね。

 独りの寒さに震える事になるのかな、と、リョーマは思った。
 そんな軟弱な自分は、出来れば想像もしたくないのだけれど。
「何なんだ、お前は……」
 リョーマにはり付かれたまま呆れたように息をつく手塚の視界に、ふい、と白いものが舞い落ちた。気付いてよく見れば、それは数を増やしながらはらはらと地上に吸い寄せられて行く。
 また雪が降りはじめたのだ。
「とにかく越前、あがれ。お前の嬉しそうな顔の理由は中で聞いてやる」
 土産もあるしな、と付け加えられて、リョーマはまた笑った。
 もうすぐ。
 あと少しで、ふたり一緒にいられない日々がやってくるけれど。
 そんなの全然平気だ。平気になろう。
「部長! 食い物っスよね?」
「……リクエストどおりにな」
 リョーマの冷え切った髪を撫でる手塚の手。
 そこから身体中に伝わって行くものを、リョーマは密やかに受けとめた。

 今のうち。この冬を暖かく感じる今のうちに、沢山沢山ぬくもりを分け合って。あたたかさを、胸の内に貯め込んでおこう。そしたらきっと、大丈夫。
 それでも時々寒さに震えてしまうそんな時には、あなたが会いに来てくれるだろう。
 そうしてまた一緒に過ごせる冬が来るまで。
 その先の春も夏も秋も冬も。
 ずっとずっと、傍にいよう。

 いつまでも、いつまでも。
 会えない冬も、仕方がないやと思えるくらいに。
 ずっとあんたが――大好きだからね。




END




●あとがき●
リョーマさん、ひとりでちょこちょこと走っているぞ。手塚がついてきてないぞ! けれど、会えない季節も笑ってやり過ごせるほどの大きな愛ってのは、きっと希少な宝物ですぞ。てーか、全然問題じゃないかな、この人達の場合は(笑)。



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