UP20020522

情熱のバイオリズム





 ふたりきりの部室の中で、リョーマはさも退屈そうにベンチに座ったまま足をブラブラさせていた。
「部長、まだ?」
 すでにユニフォームから学生服へと着替えたリョーマが憮然と呟いてみても、手塚はピクリとも反応せずに長机に向かっている。
「ねえってば」
「もう少し待っていろ」
 なんとなーく、いつもの会話。
「……」
 まあ、いい。
 こうやって部活動後にリョーマが部室で手塚を待っていても、この部長は何も言わなくなった。以前は良く「用が無いならもう帰れ」などと言われていたものだ。
 それに比べれば今は、リョーマと一緒に校門を出る意思があるという事で、そこまでするという事は少なくともリョーマを家まで送り届けるつもりでいるのだろう。別にか弱い女の子でもないのだから、わざわざ送られるいわれはないのだが、要はそれだけ一緒にいる時間が増える、そういう事だ。
 けれど。
 いつもいつもこうやって、ぼんやりと相手の事を見つめているだけ。
 これってけっこう……。

 手塚が淡白なのは、今に始まった事ではない。
 それはわかっているし、それがいやなら他を探せば良い。それもわかっている。
 それでもリョーマは手塚がいいんだから。どんなに否定しようとしても、自分の本当に望むものだけは、自分でもどうにもできない。もっとも、否定するつもりなんて無いけれど。
 だけど、せっかくこうやってふたりだけでいるのにね。
 全然それっぽい雰囲気にならないのは、どうしてだろうね。
「ねえ、部長」
「なんだ」
「歩み寄りとか努力って言葉も、意外と大事なような気がしない?」
「何を言っている」
 間髪も入れない。
 それもそうだろう。ちょっと前のリョーマでも、きっと今の手塚のような反応を返したに違いない。他の事ならともかく、こと人間関係に関して、リョーマほどそれらの言葉と無縁な人間もいなかっただろう。
 リョーマがそんな事を少し考えるようになったのは、こうして手塚と一緒にいるようになってからの事だ。
 でも、だから思う。
 なんであんたは、全然変わんないの?
「俺なんか相手じゃ、変わろうって思う事すらしないってことかな」
「だから何を言っているんだ」
 リョーマは無造作に手塚へと歩み寄り、その左手を取った。
 コン、と音をたてて手塚の手からこぼれたペンにも構わず、リョーマはその甲に口唇を這わせる。
「……」
「……」
 そうされて、ようやく手塚はリョーマが何を言わんとしているのかを理解した。
 思わずフウ、と溜息が出てしまう。
「ここは部室で、今は部活動の延長上だ。それはわかっているのか?」
「わかってマス」
 だからどうだというのだ。
 ココは公的な場所で、今は部活動中だから。
 そんな使い分けをしなきゃいけないほど、自分たちはオトナだろうか。というか、使い分けようにもこの勉学と部活動中心の学生生活の中、プライベートな時間など確保しようも無いではないか。まともな休日すら、滅多には与えられていないのだ。

 テニスに明け暮れる毎日は楽しい。
 けれどアナタとは、それだけでは駄目だ。

 身体だけではない。
 心にだって成長期があって、そういう時には自分の周りのどんな事も吸収して、自分の心の大きさへと変換していくものではないだろうか。だから多感な中学生時代だとか言われるのではないか。
 そう例えば、自分を想う、あなたの気持ちとか。
 そういう事をちゃんとわかっているのか、この老成した真面目なイイコちゃんは。
「ツレなさすぎなンだよ、あんたは」
「……」
 手塚はハア、と、盛大に溜息をついた。

 ガタン。
 音をたてて立ち上がり、素早い動作でリョーマの襟を掴み上げる。
「!」
 勢いでほんの少し踵の浮かんだリョーマの口唇に、手塚は自分のそれを押し当てた。
「……」
 目を見開いたリョーマと、そのまま数秒見つめ合う。
「どうして欲しいんだ、お前は」
 驚いたように手塚を見つめていたリョーマだが、その瞳が普段の通りにスッとすわった。
「……そういう事を、もっと沢山」
「……」
 更に数秒をかぞえ。
「あのな」

 ガチャ。
「手塚、まだ残ってるのか?」
 実にタイミング良く、ドアが開く音と共に顔を出した大石。その大石の表情が一瞬にしてこわばり、蒼白になった。
「……てづ……」
「……」
「て、手塚! 待て、はやまるな! 越前が何をしたか知らないが……そこで我慢が先輩だろう!? 未来あるかわいい後輩に暴力はイカン!!」
 暴力はイカンって。
 というか、すでに言っている事が尋常ではない。
 リョーマの胸倉を掴むといった風情の手塚の立ち姿、なるほどこれから殴り掛かっても不思議はなさそうに思える。よもやこれがラブシーンの真っ最中だなどと、大石には思いもよらないだろう。
 しかし一体、リョーマが何をやらかしたと思い込んでいるのだろうか。
「……大石」
「副部長、ちがいますから」
 手塚の手から解放されたリョーマがチャイチャイと手を振るのを目の当たりにして、大石の表情はかなり複雑に歪められた。
「ちがう? 違うって、でも越前」
「目に入ったゴミ、見てもらってたんス」
 言い訳としては、かなり苦しい。というか、あまりにも古風だ。
「目にゴミ? そ、そうなのか?」
「そうそう」
 ふんふんと頷くリョーマのとなりで、手塚はただ無言。これで納得しろという方が無理な話のようにも思えるが、実際ケンカをしていた訳ではないのだ。だが二人の事を何も知らない大石に真実を話すのは、ちょっと躊躇われてしまう。
「なら……良いが……手塚、まだ帰らないのか?」
 いいと言ったものの、本当はまだ納得していない様子の大石は、チラリと手塚を見る。
 これ以上踏み込む事をやめたのは、事を荒立てないための、彼なりの判断あっての事なのだろう。そんな気遣いが今回はまさに空振りである事に、気の毒な彼は気付いていないが。
「まだやるべき事が済んでいない」
「そうか……越前は?」
「俺はここで部長にエールを贈ってるんス」
 その言い訳もちょっと辛い。
「そうか」
 しかし大石は素直に頷いた。これも彼なりの機転なのか、それとも単に天然なのか、判断に苦しむところだが。
「じゃあ俺も待ってようか。もう委員会も終わったし」
 この二人だけを残してトラブルに発展する事を怖れているのだろうか、大石は笑顔で言う。大石のこの言葉には頷かない訳にもいかないだろう。もともと大石は委員会のために部活に顔を出していなかったから、どうせ帰る時には部室の鍵を預けるために大石を待っているか、手塚が残務処理を済ませているうちに大石が顔を出すかのふたつの道しかなかったのだ。
「だが時間がかかるぞ。これを済ませてから、教室に忘れてきた英和辞典を取りに戻らなきゃならない」
 ペンを取り直し、手塚はさりげない仕草で残務処理を再開した。
「そうか。それなら辞書は俺が取ってきてやるよ。もうすぐ校舎閉められちゃうからな」
 手塚の言葉にそう返して、大石は急いで部室を飛び出した。
 体よく誘い出された事には、気付いていない。
「……」
「……さっきの話だが」
「ハア」
「つまりお前は、この俺と年中ベタベタしていたい、という事なのか?」
 言いながらリョーマを睨み付けるその顔は、もしも「そうだ」などと答えたら、その顔を張り倒しかねない勢いだ。
「そんなんじゃないっスよ。でも部長、いま大石先輩にどういう風に見られてたか、わかるでしょ?」
 少なくとも、ラブラブな恋人同士とかいう印象を持たれたという事だけはありえない。
「他人からどう見えるのかが大事なのか?」
 手塚は意地悪く言う。
「そうじゃないっスよ! 他人からどう見えてたって、そんなのはどうでもいいでしょ! 問題は、他人からそういう風に見えるような事しか、部長が俺にしてくれてないって事でしょうが!」
 正論なような、手塚の論と大差ないような。
「じゃあ、どうしたいんだ」
 あくまで意地の悪い手塚の腕を取り、今度はリョーマが引きずり上げて立たせた。そのまま全身を使ってテーブルの上に手塚の身体を仰向けに押しつける。手塚はされるがままになっているが、まるで大人に絡み付く子供のような風情だ。
「たまにはこーいう風に、激情に任せて押し倒してみるとか」
 その肩を押さえつけたまま、テーブルの上に乗りあがるリョーマ。一方手塚は、まさにやれやれといった風情だ。
「大石が来るぞ」
「まだ来ないっスよ」
 手塚の腕に手を這わせつつ、余裕の表情で顔を近付けるが。

 ガチャ。
 ふたたび。

「うわー、ラッキー! まだ誰か残って……てえーッ!?」
 顔を出したのは、思いもかけない伏兵、桃城だ。
「……チッ」
 舌打ちするリョーマ。
「え、越前、落ち着け、早まるな! お前、部長に何言われたか知らんが、暴力はマズイだろーーーッ!?」
「は?」
 テーブルの上に手塚を組み敷くリョーマを目撃して、その場であたあたとパニクる桃城。
「……」
「お互い様だな、越前」
 台詞がほぼ大石と被っている桃城の慌て様に、小さく呟く手塚。
 いかにも不本意そうに、リョーマは顔をしかめる。
「おいってば、越前!」
「桃先輩、違うって」
「な、何がだよ!?」
「いまラブシーン真っ最中っスから」
 本当に苦しい言い訳だ。
 これ以上になく、真実でありながら。
「ななな、何言ってんだよ、越前!?」
「落ち着け桃城、争っていた訳じゃない」
 リョーマを押しのけて、手塚は立ち上がり、襟を正した。
「ででで、でも」
 手塚にそう言われてはこれ以上ツッコミようも無いが、実に面妖な顔つきになってしまう桃城。
「大体桃先輩、何しに来たんスか」
「俺か? 俺はだな、部室に忘れた弁当箱を取りに……おあ、越前てめえ、はぐらかすなよ! 俺を追い出してまた部長と身体で話をつけようとか企んでるんじゃねーだろうなあ? それはいけねーな、いけねーよ!」
「違いますって!」
 身体で話をつけるとは、まあ別の意味では言い得て妙かもしれないが。

「おいおい、またもめているのか?」
 そうこうしているうちに、辞書を片手に大石が戻ってきた。
「て、なんで桃がここにいるんだ?」
「弁当箱取りに戻ってきたんスよ! そしたらこのふたりが」
 桃城の言葉に、大石はもしやといった顔つきで二人の方に視線を向けた。
「ちがいますって」
「ああ、ちがう」
 口をそろえてそんな事を言ってみるが、相手の二人にとっては説得力もなにもあったものではないらしい。
 桃城に加えて大石まで戻り、あーあとばかりにリョーマは溜息をつくが、当然といえば当然のタイミングだろう。手塚もすでに、残務処理の続きに関しては諦めてしまった。こんな騒ぎの中では、もう無理だ。
 開いていたノートを閉じ、自分の鞄の中に仕舞う。
「帰るぞ」
「あ、ああ、そうだな」
 溜息の手塚に、大石はあからさまにホッとした表情で頷いた。絶対にもう、ここで二人きりにはさせないつもりらしい。この場はとっととうやむやにやり過ごすに限る。
「越前も、行くぞ」
 背中に添えられた手塚の手に、唇を尖らせながらも従わない訳にはいかないリョーマだった。




 帰りの間で考えて、気付いた事がある。
 手塚はひとり、息をついた。
 静かな動作で家の電話の受話器を取る。順序良く押すプッシュボタンの番号は、リョーマの自宅のものだ。
 最初に電話に出た菜々子の呼び出しで駆け下りてきたのだろうか、保留音が切れた途端に「キャ」と小さな声が微かに聞こえた。
『もしもし!?』
「……」
 受話器に飛びついたのであろうリョーマの慌てたような声に、手塚は苦笑してしまう。
『部長?』
「お前、少し落ち着け」
『何言ってんスか! ……どうしたの?』
 手塚からリョーマに電話をかける事は滅多にない。リョーマが舞い上がるのも無理からぬ事だ。
 リョーマがクールダウンするのを、手塚は根気良く待った後で口を開いた。
「問題は、サイクルの違いなんじゃないかと思った」
『?? ハイ?』
 いきなり言われたリョーマには、意味がわからない。

 手塚とて何も、リョーマが思っているほどに淡白な訳ではない。お互いこういう付き合いをしている以上、時々は相手に甘えたくなるような、そんな時だってある。しかしそこは彼の性格、もちろん年中ベタベタとひっついているような関係は望んでいない。けれど、それはリョーマだって同じはずだ。
 時々、たまに、思い付いたように。
 ふと相手の気持ちを確かめたくなったりする。
 リョーマだって、手塚だって。
 その波の間隔が、おそらくリョーマは手塚よりもほんの少し短いのだ。
 つまりは、そういう事なのだろうと。

『……ナルホド?』
 納得できるようなそうでもないような妙な気分だが、冷静にそこまで検証報告をしてしまう手塚の性格を尊敬してしまう。
『それで、だったら部長はどうするの?』
「お前はどうして欲しい」
 相変わらず、手塚は優しくない。
『ホントにあんた、意地悪いね』
「お前の言うように、歩み寄りも大切だと考えただけだ」

 ――どうしてほしい?

 気持ちを言おう。叶え合おう。
 与えられる時間は少ない。そして作るのも難しいのであれば、与えられたその時間の中で、最大限確かめ合うしかないだろう。他の誰かはともかく、自分たちはそうやってひとつの時間を作っていく。
「どうして欲しい? 今、この場でできる事限定だ」
『そーだね……』
 手塚のそんな言葉に、リョーマは小声で何事かを呟いた。
 その言葉に、手塚は本当におかしそうに苦笑した。生憎と、電話の向こうのリョーマには、その笑顔を見る事は叶わなかったが。
「――……」
 手塚も、微かな声で呟く。
 求めて、答えて。
 それがどんなに甘やかな言葉の交換であったか、それは二人きりの秘密なのである。




 甘い恋人同士のように語り合う事は少ない二人ではあるが。
 そうやって、忙しない時間の合間に二人の時間は確実に作り上げられて行く。
 ――手塚とリョーマが実は一触即発らしい、などという噂が広まりつつある事は、ずいぶん後になって知る事になるのだが。



END




●あとがき●
ほんのささいな電話なんかでときめいちゃったりなんて、そんな経験ありますか(笑)?
二人が何を囁き合ったかー、あはははは、想像して下さい♪



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