UP20010915

青学メモリアル:4 Confession




「あれ、どうしたの」
 明日から期末試験が始まるという、追い込みの日。乾に試験の予想をたててもらう約束をしていた不二は、待ち合わせ場所のテニス部部室に先客を見つけた。
 越前リョーマだ。
「どもっス」
「部活がないのは知ってるよね?」
 何かというと部室に集まってしまう習性のある彼らだが、さすがに今日あたりは部活動は控えなければならない。
「不二先輩こそ」
「ああ、僕は乾に範囲のヤマを当ててもらおうと」
「随分ゆっくりっすね?」
「うーん。なんだかんだ言って、自主練習とかで時間潰しちゃったからなあ。今日くらいはね。まあ、そこそこの自信はあるし。君は?」
「……」
 リョーマは黙ったまま、不二から視線を逸らす。
「部長と……約束してて。勉強教えてもらうって」
 なんだ、似たような事を誰でもしているもんだ、と不二は考えた。しかしそれにしても、リョーマの顔色が優れないように見えるのは、気のせいじゃないような気がするのだが。
「手塚と約束してる割には、浮かない顔だね? そんなに勉強キライ?」
 言いながら不二は、手に持っていた鍵で部室の入口を開けると、リョーマを中へと促した。
「そうじゃないス。別に、何でも」
「何でもないって顔じゃないなあ。手塚とケンカでもした?」
「なんでそうなるんスか。……お節介っすね」
 相変わらず先輩に対しても物怖じしないリョーマの言葉に苦笑しつつ、そんな処もかわいいかも、などと思ってしまう不二は、壁際のベンチに座らせたリョーマの顔を興味深げに覗き込んだ。
「うん、お節介だよ。で?」
 こうなった不二はしつこい。明確な答えを返さない限り、解放はしてくれないだろう。
 リョーマは渋々口を開いた。
「別に、喧嘩なんてしないス、俺達。ただ、最近部長といると、苛つくだけで」
「苛つく?」
「……」
「気に入らない事でも、あるの」
「そうじゃなくて。ただ部長といると、何でだかこの辺が、むかむかして」
 リョーマは、みぞおちのあたりを片手で押さえた。

 ――むかむかって。それって。

「そういう事、今までなかった?」
「ないっすよ。どっちかって言えば、部長といる時は、いつも気分良かったくらいで、……て、何言わすんスか」
 リョーマの言わんとしている事を上手に汲み取りながら、不二はついつい、こめかみを押さえてしまう。
 (思ったより気持ちが追いついてなかったんだな、このヒトたちは……)
 それは『むかむかしている』のではないと不二は考えたが……まさかここまでとは思わなかった。あれほどちゃんと形にしておけと言ったのに、未だにこんな小学生じみた関係でいたとは。もっとも、こういう事に関しては強烈に鈍足な者同士だから、仕方ないのかもしれないが。
 しかしこれでは、手塚はともかくリョーマの方は試験勉強どころではないだろう、と思う。
「あのね、越前君」
 不二は、腰掛けたリョーマの真正面にかがみ込み、その頬を両手で包んで顔を近付けた。
 それこそ、額が触れ合うかというくらいに。
「今、目の前にいるのは、誰?」
「誰って、不二先輩でしょ。何やってんスか」
「そうだね。どう? 別に、気分悪くも何ともないでしょ?」
「……はァ」
 リョーマには、不二が何をしようとしているのかさっぱり解らない。
「ちょっと、想像してみてね。今こうやってるのが、僕じゃなくて手塚だったら?」
「部長?」
「そう。今君にこうしているのは、僕じゃなくて手塚」
 こうしているのは、不二ではなくて手塚。
 手塚の手が自分の頬を包み、手塚の瞳がこんなに近くで自分を見つめ、今にも唇が、触れそうな場所で……。
 ふと、不二の顔に手塚の面影が重なった。
 その落ち着き払った切れ長な瞳に、リョーマは一瞬目を見開いて、息を呑む。

「……! 痛……ッ」

 グイと不二の胸を押しやって、リョーマは胸のあたりを押さえた。
「イタタタタ……ッ。不二先輩、何したんすか!」
 リョーマは、押さえた場所を握り締めながら眉間に皺を寄せる。
「何にもしてないよ……」
 予想通りの反応に、嘆息してしまう不二。
 ……あーあ……。
 重傷だな、と呟いて、不二は立ち上がった。
「ねえ、越前君。ここで待っててくれるかな? 手塚探してくるからさ」
「なん、で?」
 どうせ待っていればここに来るのに、と思ってリョーマは疑問を口にしたが。
 君らのためだよ、と呟いて、不二はため息をつく。その押さえた胸の痛みの意味が解らない、幼い君のため。
 まったく、なんて鈍い人たちなんだ。

「にゃー、不二ーッ! 乾にヤマ当ててもらうんだって? 俺も混ぜて混ぜてー!」
 唐突にけたたましい音をたてて部室のドアを開けた菊丸と衝突しそうになりながら、その横を上手くすり抜けて不二は振り返った。
「丁度良かった英二、越前君とここで遊んでて」
「え? え?」
 言うが早いか、足早に部室を出て行く不二を見送りながら、菊丸は訳が分からずあたふたと首を振った。そうして室内の奥に、ベンチで力なく座ったままのリョーマを発見する。
「あれ、おチビちゃん? どした? 顔赤い」
「な、何でも」
「て、おチビちゃん、泣いてんの?」
 驚きに目を見開いた菊丸に顔を仰向けられて、リョーマは初めて潤んだ己の目許に気付いた。
「泣いてなんか、いないっス」
 自分でも訳が分からず、顎に掛けられた菊丸の手を外す。

 何故?
 今までこんな事、本当になかったのに。
 何もない自分の周りの空間に、手塚の存在を感じると途端に、どういう訳か胸や胃のあたりに痛みが走り、疼き、不快感とも取れるような痺れが全身に生まれる。
 いても立ってもいられないような。
 変だ。自分は、おかしくなってしまったのだろうか。
 部長の事、好きだと思ってたけど、本当は違ったんだろうか……。

 不二が開け放ったままにしていた部室の入口に、長身の影が現われた。
「ん? 何でここにお前らがいるんだ? 不二はどうした?」
 乾である。
 彼がのっそりと部室に足を踏み入れると、リョーマの肩に両腕を絡めた菊丸が助けを求めるように声をたてた。
「うーにゃ〜、い、乾ィ。おチビが泣いてる、泣いてるよおォーッ」
 ぎゅうぎゅうと後輩を抱きしめ、菊丸の方こそが泣き出しそうな勢いである。
「泣いてないってば! 放して下さいって!」
 菊丸の腕の中でリョーマはもがくが、彼より長身の先輩の力は強い。
「おやおや……越前、どうした? 不二に苛められたか」
 原因は不二のような気がするが、別に苛められた訳ではないと思う。
 自分でも何が何だか解らないでいるリョーマの隣に腰掛けると、乾はその顔を覗き込んだ。
「何かあったのか?」
「何もないっすよ……不二先輩も乾先輩も気にしすぎっス」
 そうやって人が何かとかまいたくなってしまうあたりがリョーマのアイドルたる由縁だったりするのだが、相変わらずリョーマはその事を自覚していない。
「悪いが、部員管理も仕事の内でね。じゃあ、不二に何を言われたのか言ってごらん」
 いつになく優しい口調で、それでいて強い調子で質す乾にほんの少し気味悪さを覚えてしまう。適当には、ごまかされてくれないような気がする。
「それは……」
 どうせ自分では何もわからないままだし。乾に話したら、この苛つきの原因が分かるんだろうか。それはそれで、釈然としないものは感じるが。


「ふーん。それで不二は、手塚を探しに行った訳か」
「……っス」
「またずいぶん可愛らしい問題を抱えてくれてるもんだ」
「何すか、それ! ふたりとも、全然ワカンナイっすよ!」
 不二と同じく、自分だけが何やら訳知りな顔をしている乾に激をぶつけてしまうリョーマ。論理的な訳知り顔は、リョーマの方こそ専売特許だったような気がするのだが。どうにも納得できない。
 菊丸は菊丸で、今初めて知った事実に心底感心するかのように赤面しているし、もしかして自分は、今もの凄く醜態を晒しているのではないだろうか。
 乾は、犬か猫にでもするかのように、リョーマの頭をぐりぐりと撫で回した。
「はいはい、ホントにかわいいな、越前は。じゃあ言うがな、今日は手塚と一緒に帰ったら、気が済むまで奴に張りついているといい。居心地悪くなっても、離れるんじゃないぞ」
 ますます意味が分からない。
「何すか、それ……」
 眉間の皺を更に深くしたリョーマの視界に、ふたつの影が入り込んできた。
「越前君、手塚連れてきたよ」
 手塚の腕を掴んだ不二と、訳も分からず引っ張ってこられたような風情の手塚である。
 リョーマが手塚を見つめると、視線が合った。
「越前? どうした」
 乾に絡まれながら怒っているような様子でいるリョーマを見て、手塚は眉をひそめる。
「手塚、責任とってよね」
「あ?」
「越前君はね、君といると胸が痛くなって、その原因がわからないんだって。どういうことか、分からないとは言わせないよ。まったく、僕があれほど言ったのに」
「……」
 不二の台詞に一瞬目を見開いた手塚がリョーマを見る。その怒ったようにも見える表情に、リョーマはほんの少しだけ引いてしまった。
 そんなにはっきりと言う事ないじゃないかと、不二を恨む。
「うー、おチビがこんなにかわいこちゃんだったなんて知らなかったよー。手塚に飽きたら、みんなで可愛がってやるからなーッ」
 乾にぐりぐりされていたリョーマの頭を、菊丸は反対側から抱きしめる。リョーマの方は、もう何なんだといった感じだ。
「そうだね……ちょっかい出されたくなければとっとと彼を連れて帰って、ちゃんと説明してやるんだよ。ちゃんと。いいね? でないと……取り上げるよ?」
 静かな声音で不二が呟く。やわらかな口調ではあったが、手塚を見つめるその目は、今まで彼が目にしてきた、どんな不二よりも――怖かった。


 バサリと、リョーマはノートを放り出してウ〜ン、と伸びをした。開かれたページは、赤字の添削だらけだ。勝手知ったる自分の部屋、ベッドにボスンと座り込むと、疲れた目をごしごしと擦る。こんなに長い事机に向かっていたのは、多分初めてだ。
「国語が弱いな……越前、青学レギュラーである以上、全科目平均以下は取るなよ」
「聞いてないっすよ、そんな条件……」
 静かに教科書を閉じながらの手塚の言葉に、リョーマは心底げんなりとした顔になる。
「条件じゃないが、自主的な規制だ。頑張るんだな」
 確かに自分の家に先輩を連れ込んでまで悪い点を取る訳にもいかないとは思うが……。
 今日だって、場所をリョーマの部屋にしたのは、彼が勉強でヘトヘトになった身体を引きずって帰路につかなくて済むように、という手塚の配慮だ。
「世話掛けて、すいませんっス」
「何を言ってる」
 珍しくも殊勝に頭を下げるリョーマの傍に寄ると、手塚はベッドに腰掛ける彼の隣に自分も腰を下ろした。
「……で?」
「で、って?」
 正面を向き、リョーマと目を合わせないまま手塚は言葉を続けた。
「不二が言っていたな。俺といると、どこが痛くなるって?」
「う……」
 あわよくば忘れた振りをしてやり過ごそうとしていたのに。しかし考えてみれば、そんな曖昧な手段が通じる相手ではなかった。
 すでに隣に座られた時点で、居心地が悪い。
「ここんとこが……」
 そう言ってリョーマが胸を押さえると、手塚はそれを見て静かに言った。
「奇遇だな。俺もだ」
「は……?」
「俺もお前といると、同じ場所が痛くなるよ」
 手塚の言葉に、リョーマはぽかんとその顔を見つめてしまう。
「別に、おかしい事でも何でもない。お前が自覚するまで、もう少しゆっくりでも良いかと思っていたんだがな……」
「部長? 部長は何でこうなるのか、知ってるんスか?」
「知ってる」
「どうして」
「俺が、お前の事を好きだからだ」

 驚愕に、リョーマの目が見開かれる。
「えッ……」
 ちょっと待て。
 いや。
 知っていたはずだ。以前から。
 リョーマは手塚の事が好きで、手塚もそうであろうと。そんな事はとっくに了解しあっていたはずで。けれど、こういう事を難しく考えるのはふたりとも得意ではないから、気楽に考えていこうと提案したのはリョーマだ。
 けれど、最近になって、だんだんそうも言っていられなくなってきた自分がいて。いつもと全然変わる事のない手塚の無表情も、すずしげなその瞳も、見つめていると胸が苦しくて。自分のそんな変化に、リョーマは戸惑いを隠せなくなっていた。
 たった今聞いた、手塚の「好きだ」という言葉も、今まで考えていたものとまったく違う響きを持っている。

 唐突に、手塚の手がリョーマの肩を捉え、その身体を引き寄せた。
「部……!」
「いいんだ。おかしい事じゃない。そうなって当然なんだ」
 手塚は今までにない力強さでリョーマの肩を抱きしめ、その髪に唇を寄せる。

 信じられない。
 手塚が誰かを、こんな風にきつく抱きしめるなんて。
 それが自分であるという事実に、リョーマの心臓が跳ね上がる。早鐘を打つような鼓動は、先程まで感じていた居心地の悪さにも似ていて。けれどこれは、もしかして。
 居心地が悪いのではなくて、むしろその逆、なんだろうか――。
 ふと、先程の乾の言葉を思い出す。

『居心地悪くなっても、離れるんじゃないぞ』

 嫌悪感のようにも感じていたこの胸のよどみは、本当は。
 好きだから高鳴る、心地良いはずの鼓動――?

 確かめてみたくて、リョーマは手塚の身体にその腕をきつく回してみた。そんなリョーマを受け容れるように、手塚のリョーマを抱く腕が更にきつくなる。そうしてふわりと彼を包み込む、手塚の匂い。
 やっとわかった。
 これは、苛つきなんかじゃない。
 痛いほどに感じる、愛おしさだ――。
「部長……」
 手塚の身体に回した腕に力を込めて全体重を掛けると、それに押されたようにふたりの身体がベッドの上に倒れ込む。それでもリョーマは、腕の力を緩めなかった。
 手塚の胸に頭を預け、ふ、と静かに息をつく。
「ホントに、部長は俺を好きで、俺は部長が好き。だから、こんな風にドキドキして、くっついてると気持ちが良いんだよね?」
 胸に掛かる吐息に、手塚は仰向けになったまま小柄な後輩のやわらかな髪に指を差し入れ、撫で付けた。
「そうだ」
「そっか……」
 ふうわりと、リョーマの顔に笑みが生まれる。いつもと変わらないようにも見えるその微笑みに、手塚は妙な可愛さを感じてその前髪をかき上げた。
 身体を反転させ、自分が上になる。
 己の腕の中にすっぽりと収まる身体に圧し掛かり、強い力で抱きしめて。
 ほんの一瞬、その唇に己のそれを重ねた。
 リョーマの腕が伸び、己の首に絡められる。
「部長……もっと」
 掠れたようなリョーマの囁きに、手塚の指が自然に動き、つり目がちな瞼を辿る。
「知ってるか? お前今、真っ赤だぞ」
「うるさいな……」
 何であんたはいつもと変わらないんだ、と毒づくリョーマに、本当はどうしようもないほどに昂揚しているのだと心の中でだけ告げて。
 それから手塚は、幾度もリョーマに口接けた。


「何かおめえ、気味わりィぞ」
 越前家夕食時。
 リョーマの父、南次郎は、あくまでいつも通りに振舞う息子に違和感を感じて、からかいまじりに話し掛けた。
「別に。普通だよ。……けど」
「けど? なんだ?」
「好きな人の傍にいて、胸が痛くなる理由が分かった」
 無意識なのだろうか。まるで「得した」とでも言いたげな様子で呟く息子の姿に、南次郎は呆然と、くわえていた煙草を落とした。
「て……なんだ! おめェ誰かに片想いでもしてんのか! こりゃ傑作だ! ははははは!!!」
 笑い転げる父を睨み付けると、リョーマは椅子から立ち上がってフン、と彼を見下した。
「バーカ。そんな訳ないだろ。ちゃんと『俺もだ』って言われてるもんね」
 なんだ、つまらん……と新聞を広げる父を尻目に、リョーマは鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で足許のカルピンを抱き上げ、自室へと続く階段を昇っていった。
 南次郎は、はて、と顔を上げる。
「なあ、母さん。今リョーマの奴、相手の台詞のとこ『俺』って言ったかな」
「?」
 父子の会話を聞いていなかったらしい妻の表情に、南次郎は「ま、いいか」と再び新聞に視線をおとした。
 リョーマは部屋に戻ると、ノートを広げて手塚の手で書かれた赤字を辿り、微笑んだ。
 手塚は今、どんな事を考えているんだろうなどと思い馳せながら。
 着実に自分達の事が公認になりつつある事を、リョーマと手塚だけが今イチ自覚していない。そして、乾の手による『青学メモリアル』なる記録が面白おかしく増えつつある事も。

 もっとも。
 本人たちは幸せだから、そんな事実はどこ吹く風なのかもしれない。
 そう。
 『彼がスキ』だから。これでいいのだ。


END




●あとがき●
やっと『好き』まで辿り着き。書いてる私も一安心。ていうか本当はこのミョ〜な雰囲気のままでバックレようかとも思っていたのですが、少しはラブラブしないと、見ている方はつまんないじゃん……。てなわけで、ふたりがもっと爆走するのは、いつの話でしょう?



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