UP20010907

青学メモリアル:2 ココロ ロジック




 クラブからあがった不二周助がシャツのボタンを留め終えた時、クラブハウスの扉が開かれた。
「……まだいたのか」
 そこに現われたテニス部部長、手塚国光の言葉に、不二はいつもの如くやんわりと目を細める。
「ああ、居残りしている後輩くんを優しく見守ってたんだよ」
「越前と桃城か……」
 朝練に遅刻してペナルティーを受けているふたりを、見守るというよりは楽しく眺めていた不二はにこにこと笑った。今ごろ彼らは、へとへとの身体を引きずりながら用具の後片付けをしている頃だ。
「桃城は、越前君が来てから随分感化されてるみたいだなあ。ま、元々かもしれないけど」
 今日は一緒に登校するという約束を交わしておきながら、ふたり揃って寝坊をしたらしい。リョーマだけが寝坊をしたのなら、桃が迎えに行った時点でたたき起こせるし、桃だけが寝坊をしたのならリョーマは彼を捨てて出てくるだろうから、遅刻するのは片方だけで済むのだが。確かに昨日の練習はハードではあったが、その度に遅刻をされるのでは他のメンバーに示しがつかない。もっとも、そんなに回数が多い、というほどではないが。
 しかし不二は、さして困った風でもないように相変わらずの笑顔でいる。
 リョーマが入部してから、青学テニス部は良い方に変化を遂げているからだ。
 元から連帯感はある方だったが、リョーマが出現してからというもの、部内の雰囲気は一気に変わった。彼の持つメチャクチャとも言えるテニスセンスが、他の人間の闘争心を掻き立てる。不二や手塚も例外ではない。リョーマがいなくても彼らは充分強いが、リョーマがいれば、皆がもっと強くなる。お互いがお互いを超えようとする、理想のチームワークが生まれるのだ。
「本当に、信じられない逸材だね……。ところで? 手塚はどうしてここにいるの? 今日は委員会で、クラブには顔を出さないんじゃなかった?」
「そのつもりだったがな。通りかかってみたら、まだ誰か残っていたから覗いただけだ」
 ふ〜ん、と気のなさそうな返事を返してから、不二はそのにこやかな瞳を手塚に近付けた。
「越前くんが見えたから、の間違いじゃないの?」
「……何が言いたい」
「別に?」
 皺を刻む手塚の眉間にコツンと人差し指をたてると、不二はさも思慮深げに囁いた。
「大切にした方が良い気持ちって、あるよ」
「……」
「もどかしいんだよ。傍から見てるとさ。君らは、自分達の距離がどんどん近くなってるって事に気付いてるよね」
「……」
「けど、じゃあその後どうすればいいのか? そこがわからない。自分達が、どうしたいのかも」
 言い募る不二の一言ずつにも、手塚は表情を崩さない。けれど、胸の内は揺れていた。ほんのすこし。
「何を言い出すかと思えば」
 ばかばかしい、とでも言うように踵を返しかけた手塚の腕を、不二は慌てて握り締めた。
「逃げないで、手塚。大事な事だよ。君らの頑なな視線の交じり合いは、他の部員にも影響を及ぼしかねないんだから」
 あくまで軽い調子で言う不二の表情は、至って真面目に見える。その真意は、手塚にも計り知れない。
「海堂じゃないけど、まるで蛇のにらみ合いみたいに見つめあってられちゃ、皆が怯えるからね。遠くから見つめ合うくらいなら、もっと近くに寄って。もっと話をして。せっかく君らが辿り着いた想いなら」
「……何故けしかける」
 不二の真意が分からないままに、手塚はいぶかしげな視線を彼に送る。なぜそんなにしつこく、不二はふたりの事に口を挟んでくるのか。たいがいにおいて何事も最大限黙って見ている不二らしい行動とも思えなかった。
「別に。僕は、僕が楽しめる方向を選択してるだけ。今みたいな状態の君達じゃ、シャレにならなくて遊べない」
「……」
「君らみたいなのは、もっと傍に行かなきゃ分からないよ。せめて、このくらい」
 そう言いながら不二は手塚に近付くと、その胸が触れ合うところまで寄り添って、手塚の背中に腕を回した。
「このくらいはね」
「不二――……」

 ――ガタン。

 間の悪い時に、間の悪い物音。
 寄り添ったふたりの視線の先に、部室のドアを開けたリョーマが憮然と立ち尽くしていた。
 上目遣いの瞳で、無表情のままふたりを見つめる。
「……お邪魔っす」
 表情を崩さないまま回れ右をしたリョーマがすばやくその場を立ち去るのを、呆然と見送ってしまうふたり。
「……」
「越前君……」
 なんて嫌なタイミングで現われる子なんだ。
 頭を抱えたい想いで、不二は手塚を見つめ直した。
「行って。ちゃんと説明しておいで。誤解だって」
 ふう、とため息をつきながら、不二は手塚の胸をトンと押した。
「言い訳をしなきゃならないような間柄じゃない」
「……君ねえ」
 淡々とした手塚の言葉に、不二は怒りの四つ角を2、3個出したい思いでこめかみを押さえた。
「この期に及んで、まだ言う? 君の謙虚さには敬服するけどね、彼がこの状況を誤解したのは事実だよ。で、言っとくけど、それで彼は傷ついてる。自分じゃ気付いてないかもしれないけどね。それを君は放っとく? 本当はお互いの気持ちを分かってて、それはどうなの」

 想い合ってるくせに、それはないんじゃない?
 想っても想われない人間は、じゃあどうすればいいの。

 言葉には出さないままに、不二は心の中で捲し立てた。

 ずっと想っていながら、横からかっさらわれる気持ちは、分かるまい。
 彼は突然出現し、目の前の人の心をあっさりと捉えてしまった。しかも質の悪い事に、この自分の心ごと――。
 憎からず思っている相手をあっさりと奪ってくれた張本人は、そのおかしな魅力で不二自身の心をも翻弄した。恨みや憎しみでなく、何故だか彼から目が離せない。光を追うような視線を、どうしても外せなくて。
 だから。
 だから、思ってしまった。
 仕方ないと。
 あんな輝きを見せ付けられたら、誰でも惹かれずにはいられないと。
 この人も、そして自分も――。

「ずっと変わらないままでいられる訳なんてないんだよ。今それで良くてもね。ちゃんと形にしておかないと、絶対に後悔する。――知らないよ。君は近寄り難いから、誰も君に対して抜け駆けしようなんて思わないだろうけどね、彼は違う。誰かに奪われてから泣いたって、遅いからね」
 今の自分のように。
「不二……」
 戸惑う手塚の呼びかけに、不二はふっと表情を緩めた。
「第一このままじゃ、越前君がいつまで経っても帰れないじゃないか」
 少し熱くなりすぎた想いを鎮めるように、不二は再び何事も無かったかのように瞳を細めた。
「分かったら、さっさと彼を連れ帰っておいで」




 違う。
 本当は、分かっているはずだ。
 あの時のふたりはきっと何か事情があってああいう状態になっていたのであって、自分が勘ぐってその場から逃げ出すような状況ではなかったはずだ。多分。
 じゃあ、どうして自分は、逃げてしまったのだろう。

 部室を飛び出したリョーマは、部室周辺の一角にある大木に登って、太い枝にその身を沈めていた。
「想像以上……てことか」
 動揺したのだ。確かに。
 部室で二人を見た時、一瞬頭の中が真っ白になって、直後に『そういう関係なのか』と疑った。疑ったという事は『そういう風に』手塚を意識していたという事だ。
 深みに嵌まりたくなくて、考えないようにしていただけだ。
 だって、相手はあの部長で。
 誰からも尊敬されて、崇拝の域まで行っているあの人を、自分が一人占めになんてできる訳もないと思ったし。そんな風に心を揺らしている自分を認めるのも嫌だった。
 何故自分ばかりが、こんなに余裕を無くさなくてはならないのだ。テニスの事でも、それ以外の事でまで。
 納得できない。
 いつも涼しげに構えているあの人に、勝手に躍らされているような自分があまりに情けなくて。
「自覚なんて、したくなかったよ」
 気付いてしまえば、彼の一挙手一投足に期待をかけてしまうようになる。ほんの小さな動作のひとつにも『それは、俺だから?』と。
 今だって待っているのかもしれない。先刻のは違うんだ、と、言い訳に来てくれるのを。
 本当に、おかしいんじゃないのか。
 自分自身に呆れ果て、心の中でツッコミを入れるリョーマの視界の隅に、しかしその人は現われた。
「越前」
 すぐにリョーマを見つけた手塚は木の近くまで歩み寄ったが、しかしその場に立ち尽くしたまま、口を開こうとはしない。
 何も言わないけれど。
 誰に通じなくても、リョーマには解る。
 彼がここまで来たという事は、それは先刻の事を否定しに。リョーマの事を呼び戻しに来たという事で。けれどそれに甘んじてホイホイと喜び勇む自分というのはどうなんだろう。
「越前。そんな処にいないで、部室に戻って着替えろ」
 手塚はそれだけを言う。
 人の事を言えた義理ではないが、彼も相当に不器用と言うか、言葉数の少ない人間だ。リョーマは木の上からちらりと手塚を見下ろしたが、すぐに視線を外した。
「ちょっと身体を休めたい気分なだけです。部長も不二先輩も帰っていいっすよ。俺の鞄は外にでも放り出しといて下さい」
「越前」
「部長と不二先輩がどうとか、気にしてる訳じゃないっすから」
「越前!」
「気にしてないっス!」
 頑固なリョーマの言葉に、手塚は見上げていた視線を降ろすとフウ、と息をついた。
「……言わせてもらっていいか」
「何です?」
 手塚は再びリョーマを見上げる。相変わらずにこりともしないその瞳は、まるでリョーマを睨み付けているかのようだ。
「そういう風に頑なに片意地を張っているお前は、はっきり言って……かわいいぞ」
「着替えるっす」
 ザザッと音をたてて枝から降り、リョーマは間髪入れずに従った。
 かわいいと言われたのが、よほどこたえたらしい。リョーマにしてみれば、かわいくないと言われる事よりも、かわいいと言われる事の方が数倍不本意なのだ。もちろん先刻の言葉は、そんなリョーマの性格を良く知っている手塚の手綱さばきである。
 お互い斜に構えたまま、数秒の沈黙。
「……先刻桃城が帰ってきて、不二も帰った。部室の鍵は俺が持ってる」
「あ、そ……」
 再び沈黙。
「不二に、怒られた」
 今度も手塚が口火を切った。
「怒られた?」
「俺達は……もっと近くに寄って話をした方がいいんだそうだ」
「……」
 手塚の脳裏を、不二の言葉が過ぎる。
 ずっとこのままではいられないと。
 誰かに奪われてからでは、遅いのだと――。
「俺は、よく分からなかった。俺やお前の位置を、どうしたいのか。ただハッキリしている事もあって、俺が時々お前に感じているのは、ある種の、独占欲なんだと」
 パズルのピースを組み立てようとするかのように、手塚はひとつひとつ言葉を紡ぎ出す。時々どうしようもないほどに心を波打たせるもどかしさ、どうすればそれを越えていく事ができるのかと。
 手塚の言葉に一瞬目を見開いたリョーマは、すぐに普段通りの表情を取り戻し、ほんの少し俯いた。
「ナルホドね」
 ずっと迷い続けている小さな迷路。行く先が見えないのも道理だ。ゴールは常に己の隣に。共に同じ道で迷っているのだから。ならば、抜け出す方法はひとつだ。常に前に向かって走り続けていた身体を止め、隣に在る手を取れば良い。
「アプローチの方法を変えれば、見えてくる事もあるって事っすよね」
 呟くと同時に、リョーマは手塚の身体を背中から抱きしめた。
 その姿は、大木に張り付くセミさながらではあったが。
「越前?」
「……良くない?」
 ニッと、その背中に張りついたままリョーマは笑う。
「イイ感じじゃないっすか? こういうの」
 具体的にどうしたいか。どうしたらいいのか。言葉で考えて答えが出ないなら、ほんの少し方法を変えてみれば良い。こういう事には絶望的に疎いふたりだから、わかりやすいところから。
「俺達の関係とか形とか、そういうの後でいいから、気分のいい事をしてましょーよ。俺はこういうの、気分いいっすよ」
 カチリと、手塚の胸の内で空白がひとつ埋まるような感覚があった。澱んでいた得体の知れないものが、背中から掛けられるリョーマの声で掻き消されて行く。
 手塚は身体に巻きつけられたリョーマの手に己の手を重ねた。それをグイと側方に寄せると、自然とリョーマの身体が側方に移動してくる。その小さな肩に、そっと手を掛けた。
「……悪くは、ないな」
 ふたりの視線がさまよったまま交差しないのは、身長差のせいか、それとも照れているからなのか。
 それでもそこに、これまでとは少し違った優しい時間が流れている事だけは確かだった。


 暗がりの中、部室棟の陰に座り込むふたつの影があった。
「いいデータは取れそうかい?」
 帰ったはずの不二と、今までどこで何をしていたのか謎な乾貞治である。彼は微かなペンライトの灯りを頼りに、手にしたノートにしきりに何かを書き込んでいる。
「ナカナカだな。有意義なデータ収集が期待できそうだ」
 乾はニヤリと人の悪い笑顔を浮かべながら、ノートをパタンと閉じた。その表紙には『青学メモリアル』とペン書きしてある。
 ――ダサい。
 とは、不二は思ったが口には出さなかった。
「充実した記録にしてよね。せっかく情報提供してるんだからさ」
「この記録のテーマは"プライベート"だ。これも部員管理のひとつ。面白い情報があれば、不二だって容赦なく餌食になるんだからな」
「やだなあ。僕がそんな隙を見せると思う?」
 不敵に微笑み合う。
 部員管理という嘘くさい大義名分の元、現在の話題の中心になっている部長とルーキーのあずかり知らぬところで、完全に面白がっているふたりの姿がそこにはあった。


 ――お楽しみは、これからだ。


END




●あとがき●
ここで出ましたね。シリーズ主題(笑)。別名ラブラブ観察日記とか、乾式マル秘裏データとか。しかし、本当にダサいよな、『青学メモリアル』……。



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