UP20030131
彼の強さ
誰もが、負け無しのままに突き進めるわけじゃないよ、ね。 氷帝戦のあと、竜崎の心遣いによる息抜きのボーリングの帰り道。リョーマは小さなパン屋の店の前で佇んでいた。こぢんまりとした店構えながらも、味に定評のある個人経営のベーカリーだ。 「ほら」 その背後から、紙袋を持った手が現れた。 「アリガトウゴザイマス」 リョーマはにっこり笑顔でその袋を受け取ると、手の主、手塚に礼を述べた。ガサガサと中身をあらためて、満足そうに頷く。 「夕方に焼きが入る出来たてパンというのは、それでいいんだろう?」 「そうっス」 珍しく機嫌よさそうにそれをパクつくリョーマの姿に、手塚はため息をつく。 「後輩に使われたのは初めてだ」 手塚のそんな言葉にも、リョーマは頓着しない。 共に歩く帰り道、ベーカリーの前を通りかかったところで、リョーマが手塚に名物の焼きたてパンを買ってきてと依頼したのだ。「負けたんだから言う事をきけ」というリョーマの無遠慮な言葉に屈した訳ではないが、たまにはいいかと甘やかしの精神が顔をのぞかせたのかもしれない。 そこいらの女子高生がやるように店の前でパンをほおばりながら、リョーマは隣に佇む手塚にチラリと視線を向けた。 「明日から、九州っスよね」 「そうだ」 言葉少ななリョーマの言葉に、手塚も一言だけ返す。 無表情だよね。いつもの事だけど。 あの時も、あの時も――あの瞬間も。 命すら懸けていそうな本気の試合で、全力を投じている時でさえ。 この人が、表情を変える事はあまりない。 けれど、リョーマは知っている。 この人が変わる。 手塚国光が変わる、牙を剥く。そんな瞬間は、誰が見てもわかる。 この人の目許が、口許が変わらなくても、その身体に纏う輝きが変わる。 気配が――研ぎ澄まされ、変容する。 そういう意味では、手塚は誰よりも表情豊かで雄弁だ。 「悔しかった?」 そんな言葉が、口をついて出る。 氷帝戦。跡部との試合。リョーマが初めて目にした、手塚の負け試合。 腕の怪我がなかったら、手塚は勝っていたのかもしれない。けれど体調管理も、そして運だって、実力のうちだろう。勝った試合も負け試合にも、手塚は言い訳をしない。 「当然だ」 手塚の一言。 試合の前も後も、少しも表情を変えなかったこの人だけれど。 「あの試合に関して後悔はない。出せる力のすべてを出し切った。あの時、あれ以上の試合なんてできなかった。だが、負けて悔しくない試合なんてある訳がないだろう」 「そっスね……」 きっと、歯噛みするほどに悔しかった。 自分のプライドという点においても、また青学を率いる部長という立場においても、あの試合は勝ちたかったに違いない。 「けど、満足はしてるでしょ?」 リョーマの一言に、手塚は黙ったまま頷く。 悔しさと満足するという気持ちが同時に存在するなんて奇妙な話かもしれないが、しかしこの両極端な思いが、手塚の胸の内にはあった。言い訳も生まれないほどに全力を出し切って戦ったからこそ悔しいし、また、だから満足してもいるのだ。 「見ている者にとっても得るものがあっただろうという自負はある。だが、あの醜態をお前に見せたくはなかったという本音はあるがな」 「……?」 「格好良くはないだろう?」 思いがけない手塚の言葉に、リョーマはク、と笑った。 醜態? 格好良くない? この人から、こんな言葉が出るなんて、ね。 何をするにもただ一生懸命で全力で、それでいていつでも涼しげで。おおよそ他人の目など気にするようなタイプではないのに。 「たしかに、あんまりカッコ良くはないけどね」 リョーマの前でいつでも完璧でいようとするその強がりを、手塚のリョーマへのベクトルの強さだと考えていいのなら。 どんなに格好良くても悪くても、大切なその人の、姿だよ。 「別にいいんじゃないスか? 俺は、アンタが『世界で最強』だから好きになったんじゃないし」 初めて会った時。初めて試合をした時。 その強さが、気になった。気付けばいつでも目で追って。その姿を、眼差しの中に焼き付ける。そんな一瞬ごとを、きっと一生忘れない。 手塚が誰に負けたって、今のリョーマよりも強い事に変わりはない。世界最強じゃなくたって、リョーマが目標としているこの人に、何の変わりもないのだ。よしんば追い越す事ができたとして、またいつ追いつかれるかわかったものではない。この人は、そういう人だ。 大切だと、自覚した時点で想いは変わる。 強さを好きになったのかもしれない。けれど、今この人を想うのに、大切なのはそれだけではない。この人の強さも弱さも意地もこだわりも――自分に向ける、想いの強さも。 「みっともなくたっていいよ。『かえって迷惑をかけた』なんて殊勝な事を言いながら、それでも俺の前で強がろうとするアンタが好きだよ」 負ける手塚の姿など、多分見たくはなかった。それはきっと、リョーマだけでなく手塚を慕う誰もがそうだったろう。けれどあの時、跡部との試合の中で最後の最後まで相手に喰らいついて離そうとしない手塚を見て、やはり誰もが『もう充分だ』と思った。 満身創痍になりながら、それでも諦めないこの人だけに、もしも途中で諦めてしまうようなことがあれば、やはり見ている人間はその事に絶望感を覚えるだろう。それでも、それがわかっていてもなお、もう充分だと、思ってしまうのだ。そう思えてしまうだけのものを、手塚は周りの人間に与えてきた。 誰もが許してくれるのに、けれど手塚は諦めなかった。 リョーマを捕らえて離さないのは、彼のこういう『強さ』だ。 あけすけなリョーマの言葉にも、手塚は無表情のまま。 「大切にされているな、俺は」 そんな手塚に、リョーマはまた笑う。 「今頃気付いたんスか」 「いいや。思い知っただけだ」 これまで大勢の人間をその手で引っ張りあげてきた手塚だが、その沢山の人間にこそ自分は支えられているのだと、今回手塚は本当に思い知った。そして、今隣にいながら視線を合わせようともしない、この男にも。こんなにもかけがえのない宝を、自分はいつの間にか沢山抱え込んでいた。 リョーマはその右手で、至近距離にある手塚の左手を取った。繋ぐというよりは、薄い布が触れるように、そっと。 「アンタがそうやって強がってるうちは、俺はアンタを甘やかしてやるからね。だからもっと、自分自身の事も考えてよ」 青学の皆を上へと導くためにと。人のことばかりを考える手塚。 それその事自体が手塚の望みでもあり、手塚自身のため、という事につながっているのは充分承知してはいるけれど。 「気をつける」 存外に素直な手塚に、リョーマも頷く。 「さっさと身体を治して、アンタはいつでも勝ってなきゃダメだ。アンタが次に負けるのは俺との試合の時なんだからね」 あくまで強気な、リョーマの挑戦的発言。 「御意。お前も今より強くなれ」 「Of course」 確かな約束。 オレンジ色に染まり始めた空気の中で。 リョーマと手塚は二人だけの、静かな笑みを見せ合った。 END |
★大切にされているな……という手塚の台詞が書きたかっただけです(笑)。 |