UP20011022
ハンティング・プシキャット ――星野美祐さま
猫は気まぐれ。 自分では膝に乗ってくるくせに、抱き上げると途端に逃げ出す。 ずっと、捕まえておくには、どうしたらいい? 大きな瞳が自分を見上げてきて、それから両手を差し出した。 その仕草に。 手塚国光は、不覚にも、たっぷり1分間は硬直してしまったのだ。 人。人。人。人。人。 休日の都内は、殺人的に人が多い。 越前リョーマは、その小柄な身体を、人の波に飲まれそうになりながら、なんとか泳いでいた。 別に帰国子女、といっても、日常会話に問題があるわけでもなく、生活習慣にも大きな違いがあったわけでもなく。帰国してから何一つ不自由を感じたことなどなかった越前だが、はじめての日本の人込みには閉口していた。 もともと自分から人込みの中に出かけていく性格でもなく、行く用もなかったので、これまで体験せずに済んできていたのだが。 越前はすこしでも風を入れようと、自分の着ているシャツの裾を引っ張って、シャツと肌の間に隙間を作ろうとする。汗ではりついたシャツを肌からはがすと、すこしだけ気分が良くなった。 ……とにかく暑い。本格的な夏はまだのはずだが。湿気があって、肌に纏わりつくような暑さは、日本の気候独特のものだ。暑いのには堪えられるが、スポーツで感じるどこか気持ちいい暑さや、からっとした気候のアメリカの暑さとは違う、もともとの気候と人込みが生み出す相乗効果のねっとりとした暑さに、かなりの不快感を感じていた。 ―――どこいったのやら。ほかの3人は。 額の汗をぬぐいながら、越前は出てきたことを激しく後悔したが。後の祭りというものだ。 ことの起こりは、一冊のテニス専門誌。 そこに載っていたのは、都内の某スポーツ店が、限定品のテニスラケットを入荷した、という話題だった。あまりそういったものには興味のない越前だったが、やたらと知識をひけらかす同じ年のチームメイトの話術に乗せられて話を聞いていたのが運のツキだった。 中学生ごときの小遣いで買えるわけでもなく、親にねだっても無理だろう、とはわかっていたが。せめて一目見てみたいな、と話題は進み、いつのまにか練習が休みの日曜に計画されたその見学ツアーのメンバーに組みこまれていた。 友人関係などには無頓着に見える越前だが、まったく友達と付き合わないわけでもなく。珍しく出かける気になったのだが。いつのまにかこの人込みで3人とはぐれてしまった。 しかし、土地勘がない上に、この人込みと暑さだ。 お得意の口癖も出ないほどに、越前は疲労していた。 「!!」 と。どん、と人に押されて、転びそうになった。 なにかと思えば、後ろの方で、だれか倒れたらしい。そのトラブルで、順調に流れていた人の波が乱れたのだ。 「――……ッ!!」 押されて、体勢が崩れたといっても、周りが容赦してくれるわけではなく。越前のちいさな身体は、今度こそ人の波に沈みそうになった。その時。 ひょい。 ふわ、と浮遊感のあとに、越前は自分が人込みの中から掬い上げるように持ち上げられたのを感じた。 「……何をしてるんだ、おまえは」 猫の子のように持ち上げられて、圧迫感と纏わりつく暑さから逃れられたのは良かったのだが、一体自分になにが起きたのか把握するまでにはかなり時間がかかった。 「……ぶちょう?」 とん、と地面に降ろしてもらってから、あらためて自分を救い上げてくれた相手を見上げる。 越前に負けず劣らず無愛想で無表情の、青学男子テニス部部長、手塚国光その人だった。 意外な人物に、越前は大きな目を見開いて相手をしみじみと凝視してしまい、お礼を言うのも忘れて、くちびるからこぼれた言葉はこれだった。 「……なんでここに?」 同じように驚いていたらしい手塚は、とりあえず、人に揉まれていた後輩にケガがないことを確認すると、すこしたしなめる口調で言った。 「それは俺の台詞だ。どうした?ひとりなのか?」 「……いえ。いるはずなんスが……」 「はぐれたのか」 越前の表情で、大体の事情は読み取ったらしい。 とりあえずこっちに来い、と手塚に身体の中に抱きこむように引き寄せられて、越前は目を白黒させる。手近な喫茶店に飛びこむと、心地よい冷気が2人を包んだ。 「……飲み物くらいならおごってやる。すこし休もう。ここじゃ、お前の好きな例の炭酸飲料はないだろうがな」 よっぽど自分は憔悴した顔をしていたのだろうか。優しく微笑まれて、越前はぼんやりと頷いた。 越前の目の前にはオレンジジュース。手塚の前にはアイスコーヒー。耳障りではない静かなクラッシックの流れる店内で、2人は長いこと、黙ったまま向かい合って座っていた。 「……部長はなんでここにいるんスか?」 ようやくすこし落ちついたところで、越前は手塚に聞いてみる。ずっと黙って越前を見つめるだけだった手塚が、ああ、と返事をして。 「書店から、注文しておいた参考書が届いたと連絡があってな。それを取りに来たんだが」 言われた内容に、そういえばこの部長は最高学年で、いちおうは受験生だったっけと。そんな当たり前のことを、あらためて越前は自覚する。 夏が終われば。もう、この人はいないのだ。この、誰よりも強い人は。 自分に敗北を教えて、上を目指すことを示してくれた人。 不思議な気持ちで、越前は手塚の端正な顔を眺めていた。 「店を出た途端、お前が人につぶされそうになっていたのでな。驚いたぞ」 ぽんぽん、と宥めるように、手塚の大きな手が、越前の頭を軽く叩く。明らかなこども扱いに、普段の自分なら気分を害したはずだ。でも今は。 なんだか、その手が気持ち良かった。先ほどの出来事で気弱になっているのだろうか。あとで死ぬほど恥ずかしいのかもしれないけど。 越前は、そっと、目を閉じてみる。 「…………」 手塚も、越前の反応は予想外だった。頭にのせた手を外すことが出来なくなり、硬直してしまう。 いつもテニスコートで見せている不敵な表情と違って、安心したように瞳を閉じている越前は、ひどく幼く見えた。奇妙な愛しさに、手塚は胸をつかれる。 「……大丈夫だ」 何が、とは言わなかった。越前も聞かなかった。 ただ、そのまま手塚は、優しく越前の髪をなでていた。 オレンジジュースのグラスに反射する初夏の日差しは、そろそろ傾き始めていた。 「……送ってやる。どうせ帰る駅は近くだろう。どうにも危なかっしいからな、お前は」 手塚が伝票を取り上げながら言うのに、越前は逆らわなかった。さすがに、先ほどの衝撃には懲りていた。ひとりであの人込みを歩くのはもうご免だ。いちおう、自分の財布を取り出そうとすると。 「おごってやると言ったろう?」 やんわりと手塚に言われて、越前は素直に言葉に甘えることにした。それほど、小遣いが裕福な訳でもないのだ。 「ごちそうさまでした」 きちんとした礼を言う越前に、手塚はいささか面食らう。 けれど、その後は、不機嫌そうにぷいとそっぽをむいてしまった。それを見て、手塚は苦笑する。 どうにも、この後輩は掴み所がない。 無愛想なのかと思えば、不意に笑ったり。人嫌いなのかと思えば、妙に懐くような。 何かを思い出すな、と手塚は思って。ふいに、自分が幼い頃飼っていた猫のことを思い出す。 手を差し伸べて抱き上げようとすると逃げるくせに、自分からは膝に乗ってきて。嬉しくて抱きしめると逃げ出す。がっかりしているとお愛想のように尻尾を振ってみせた。 猫のように、といえば。手塚にとっては、言葉遣いや身のこなしがそのままのチームメイトの菊丸英二の専売特許だと思っていたのだが。 この後輩も、どことなく猫っぽいな。眦のつりあがった黒目の大きな瞳も、なんだか猫っぽい。 いずれにしても。この後輩を見つめる時の。自分のこの胸でざわめく、奇妙な感覚はなんなのか。 手塚自身にも、解かりかねていた。 帰りの電車の中も、やはり混雑していた。遠慮なく身体にかかる圧迫感に、手塚でさえ閉口してしまう。越前のちいさな身体をなんとか端の方へ寄せてやって、極力自分の身体でカバーしてやろうとするが、手塚自身もあちこちから押されてしまって、動きにくいことこの上なかった。 とても不器用に、それでも、手塚が自分を守ってくれているのを感じて。越前は、不意に。 「……部長」 思いつめたように、手塚を呼んでいた。 手塚の眼鏡の奥の切れ長の瞳が、自分を見下ろしてくる。 ふたりで試合をした時のことを思い出す。あの時は、何もかも見透かすように鋭く越前を貫いた眼。いまは、優しく自分を見下ろしている。それが、妙に嬉しくて。 越前は、両手を手塚に差し伸べてみた。もういちど、呼んでみる。 「部長」 呼ばれて、それから。 大きな瞳が、自分を見つめてきて。それから、せがむように、両手を広げてくる。 手塚は、不覚にも、たっぷり1分間は硬直してしまったあと。 包み込むように、手塚はそのちいさな身体を、自分の腕の中に収めてしまった。 電車内の熱気と人込みによる不快感は変わらない。でも。 この腕の中は安心だ。そう思うと、それらも不思議と気にならなくて。 とくん、とくん。 聞こえてくるのは、手塚の心臓の鼓動。 また安心しきったように、瞳を閉じてしまった。 「……越前?」 しばらくして、腕の中の後輩が反応しないことに気付いて、手塚は声をかける。そこで越前の顔を覗き込んで、手塚は驚いた。 圧迫感から解放されて、安心したのだろうが……。まさか。それにしても。 腕の中の後輩は、無防備にも、すっかり寝入ってしまっていたのだった。 ちいさな、身体。 こうしていると、あの天才的なテニスプレイが繰り出されることが信じられないような、軽い身体を抱えたまま。 どうしたものかと、手塚は、実に困り果ていていた。 「……越前」 この人の声は、すこし低くて、耳に心地いい。夢現で、越前はそう思った。 「越前」 もう一度、もっとはっきりと、耳元でそっと呼ばれて。越前はようやく覚醒する。 気がつくと、半ば抱えられるようにして電車から降りていた。 さっき人込みから持ち上げられたときそうだったが、なんだかこうして抱えられるようにされていると、本当に自分が猫になったように越前は感じた。 そして、先程と同じように、地面にそっと降ろしてもらう。車外の新鮮な空気に、ホッとして。 「ありがとうございました」 お礼をいうのは今日は何度目だろう。そんなことをぼんやり思いながら、越前は手塚に頭を下げた。 ここはもう見慣れた駅で、人込みもそれほどではない。越前にとってなじみのあるテリトリーだ。 「じゃあ……俺んち、こっちなんで。ホント、ありがとうございました」 ちいさな身体が、もう一度、ぴょこん、と頭を下げるのを。可愛いと感じている自分にいささか愕然としながら。 鉄壁の無表情は崩さずに、手塚は歩き出そうとする越前の手首を反射的に掴んでいた。 「家まで送る」 何、と言いたそうに越前は手塚を振り向いて。 「大丈夫っス」 無愛想に、もういつもの小生意気な口調で言った。 「ここは、テリトリーっスから」 言うことまで猫のようだ。こうなるともう言うことを聞かないな、と、そろそろこの後輩の行動が読めてきている自分に、手塚はだんだん気付いてきている。 「そうか」 仕方ないなと、手塚はため息をついた。 「……あの、部長」 「何だ」 「手、離してくれませんか?」 無意識に捕まえた手をずっと握っていたらしい。指摘されてさすがの手塚も少々焦ってしまった。 「……あ、ああ」 離してやると、一瞬だけ、越前が手塚の手の甲をその細い指でかるく叩いた。その仕草に、手塚が驚く間もなく。 「じゃあ部長、また明日」 いつもの不敵な笑みで、今度は振り返らずに後輩が歩いていくのを眺めて。 ―――今日は痛み分け、かと。手塚も口元に、笑みを浮かべたのだった。 守ってくれる、力強い腕。 耳に心地いい、低い声。 掴まれた腕は、奇妙な熱さを持っていた。 あの人の手のひらは、気持ちがいい。 なでてもらうのも、触ってもらうのも、本当は大好き。でもね。 もうちょっと追いかけてきて。捕まえて。あなたの手で。 END |
●あとがき● ……恥ずかしいタイトルシリーズ……(笑)。塚リョです、塚リョ!!このカリスマカップルも星野は大好きですが、本命リョ菊も捨てがたく。どうにも攻めリョーマさんと受けリョーマさんの境目がわからない今日この頃。あ、もちろんリョ菊と塚リョは別物の王子様ですよ。何だって大好きなのです。王子が王子で王子らしくあるならば!!(意味不明)とりあえず、はじめの一歩、なふたりです。前菜的に、「トラブル〜」と繋がってますかね。こちらのふたりも結局はお互い好きなんですが!!(爆笑)リョ菊はテンポの良いラブコメ、塚リョは駆け引きっぽいロマンス(大爆笑)目指して。読んでくださる方にはどうにも頭の切り換えをお願いしつつ、星野ワールドの右手左手の二刀流の王子様を、よろしくお願いいたします。 |