UP20010929

トラブル・プシキャット ――星野美祐さま




 あの気まぐれな子猫を慣らすのは、意外に骨が折れる。
 この手の中に転がり込んできてくれるのを、ただ待つだけではダメなのだろうか。
 はやくはやく。捕まえないと。

 休憩、の号令がかかった事で、練習中の張り詰めていた空気が一転し、一気に和やかなムードになる。
 マイペースを常に保ち続ける、青春学園男子テニス部、脅威のルーキーと言われている1年生レギュラー。越前リョーマも、木陰ですこし休んで、もはやお決まりになっているお気に入りの炭酸飲料でも飲もうかと、コート脇においてあった自分の荷物に向かって腰を屈めた。
 その時。
「おチビ―――!!」
 どーん、ずし。どしゃ!!
 越前の体にかかった重力を表現しているかのような効果音とともに、越前はその重力に逆らえず、地面にスライディングした。もともと不安定な前屈みの体勢だった為、見事に額からダイブする事になり、一瞬、目の前で火花が散る。
「うわ、モロ顔面から行ったな……」
 ちょうど越前に声をかけようとしていた2年の桃城武が、振り上げたままの手もそのままに、呆然とそうつぶやいたほどの顔面スラィディングだった。
 その理不尽な痛みに、当の越前は当然ながら怒りを覚える。が。
 この重みと同時にかけられた明るい声で、誰が自分をこんな目に合わせたのかは分っている。それでなくても、こんな事をしそうな人物に越前はひとりしか心当たりがない。
「菊丸先輩、なんなんスか……」
 ずきずき痛む額を押さえつつ、越前は、自分が動揺はしていない事に気付く。悲しかな、この突然のアタックにも、そろそろ慣れてきてしまっているらしい。
 やれやれと、越前はちいさくひとつため息をついた。
「あっちゃぁ〜、ごめんね〜。おチビ」
 言葉ほどは反省していない声で、憮然とした越前の顔を覗き込んでくるのは、れっきとした最高学年の先輩。ダブルスではコンビの大石秀一郎と見事なコンビネーションプレイで、黄金ペアとまで言われている、菊丸英二だ。
「まさかこんなに見事に転ぶとは思わなかった〜」
 間延びした声で、感心するように言う菊丸は、きょとんとした表情豊かな大きな瞳のせいか、年齢よりも幼く見える。
「……どうでもいいッスから、どいてくれませんか?」
 ふたりまとめて団子状態で転げた体勢のまま、菊丸はうつ伏せになった越前にほとんど馬乗り状態になっている。
 怒りのために低くなっている声も、この先輩の前ではまったくの無力だったが。それでも、無邪気なだけで図体は十分にデカい先輩の体重を支えるには、越前のちいさな身体では役不足だ。
「あ、ごめんにゃ」
 言って、菊丸は、のしかかっていた越前の上から退くと、越前の腕を引いて起きあがらせてくれる。転んだ原因も菊丸だが、それでも一応、どうも、と越前はお礼を言おうと口を開こうとした。
 しかして。そのまま菊丸の腕が自分の頭を抱え込むと、打った額の上のあたりになる前髪をかき混ぜるようにわしわしと動いたのに、越前は硬直してしまう。
「イッ……イタ…!!」
 まだ打ちつけた痛みが消えたわけでもない頭部を乱暴に揺すぶられて、越前は不覚にも悲鳴のような声を上げてしまった。
「ん、コブにはなってないかな」
「……打ったのはここッス」
 どうやらそれなりに責任を感じて、越前がケガをしたのかを確かめたかったらしい菊丸に、呆れたように越前は口を開いた。
 揺すぶられたせいで痛みがぶり返してきた額を指差す。そもそもあれだけ見事に顔面から突っ込んだというのに、頭部の方にコブがあると思うほうがどうかしている。
「あ、ホントだ。赤くなってる。ゴメンね〜」
 痛みを訴えたせいか、優しい動きになった菊丸の手が、そっと前髪をかきあげてみると、擦りむいて幾分赤くなった額があらわになった。
 同時に、いつも長めの越前の前髪がなくなった顔というのがとても新鮮なものに思えて、菊丸は本来の目的も忘れてしみじみと越前の顔を眺めてしまう。
 表情は憮然としているものの、自分に額を晒して見上げてくる様はどこか無防備で、歳相応の幼さを感じさせた。いつも尊大な態度をとるこの生意気な1年生がこうしてふと見せる幼さに、菊丸は奇妙な庇護欲にとらわれる。
 それにしても、睫毛はマッチ棒が乗っちゃいそうに長くてばさばさ。眦は切れ長なのに、黒目が大きくてお目々パッチリ。
 うん、やっぱりおチビは可愛いぞ。将来有望!!
 一部の女子には『テニスの王子様』とまでウワサされる幼いながらも端整な顔立ちに失礼極まりない事を思いながら、菊丸はそっと、その痛々しい赤みをぺろ、と舐めた。
 まるで、猫が自分の傷口を舐めるみたいに。
「な……!!」
 いい加減この先輩の突拍子のない言動にも慣れてきたつもりの越前だったが、これは予測範囲外だった。
 飛びすざって離れようとした越前のことを、菊丸は実にあっさりとその約20cmはある体格差を活かして押さえこんでしまう。
 諦め悪く越前がじたばた暴れるのにも構わずに、ぺろぺろと菊丸は無心に傷口を舐めている。
 ちり、とした熱い痛みが通りすぎてしまうと、あとはただくすぐったいようなその濡れた生暖かい感覚には、不思議と嫌悪感は感じなかった。
 まったく他意はなく、ただ傷の痛みを和らげようとするその行動が、あまりにも自然だったからだろうか。気がつくと、越前は、すっかり菊丸に身体を預けるように力を抜いてしまっていた。
「消毒終わり!あとは、……と。あったあった」
 気が済むまで傷口を舐め終わると、菊丸はぱっと抱きすくめていた越前の身体を開放した。それはもう、あれほど力強く抱きすくめていたのがウソのようにあっさりと。
 自由になっても半ば呆然としている越前を尻目に、菊丸は自分のジャージのポケットからバンドエイドらしきものを取り出すと、ぺた、とはりつけてしまう。
「はい、おしまい!!」
 その目が妙に笑っていたのが気になったものの、とりあえずそっと額に触れてみる。そこにはバンドエイドの柔らかい感触。痛みが治まったのは事実だったので、今度はいささか警戒しながら、越前はどうも、とお礼を言った。……さりげなく距離をとりつつ。
「……で、なんか用があったんスか」
 その動きを菊丸が見逃すはずもなく、がし、と腕を掴まれて。越前は諦めて自分から質問してみた。
 そもそもあれだけ派手なタックルをかけてきたのにはなにか用があったのだろう。いや、なかったら自分はすごく転び損だ。
「ん?あ、そうそう」
 人差し指を唇にあてて、すこし考えるようなそぶりをしてから。思い出したように菊丸は言った。
「これがしたかっただけなんだけどね〜」
 途端にまた先程のように腕のなかに抱き込まれる。
 ぱちくりと越前が瞬きをしている間に、菊丸は自分の頬を越前の頬にすりよせてきた。
 それは猫が飼い主に甘えてくる仕草に似ていて。越前は自分の飼い猫のことを思い出す。って、そんな場合じゃなくて。
「……なんなんスか……」
 堂々巡りの状況に、もはや疲れてきて投げやりに越前は言った。が、菊丸はまったく頓着しない。
「あ、やっぱりほっぺすべすべ!!気持ちいい〜〜!!ずっと触ってみたかったんだぁ」
 ずる。
 その暢気でくだらない答えに、越前の気分的にはすっごけてみたいところだったが、それは菊丸に身体を抱き込まれていて出来なくて。
 嬉々として自分に頬擦りしてくる最高学年の先輩を張りつけたまま、先程とは違う種類の頭痛を越前は感じていた。
 こんな危険人物の先輩、野放しにしておくなぁぁ!!
 越前が心で叫んだのが聞こえたのかどうか。
 ばさ!!
 急に目の前が真っ暗になった。何事かと越前は一瞬焦ったが、慣れた感触が頭部を覆ったのに気付く。誰かが、自分に帽子をかぶせたのだ。
「…………え?」
 越前が目深にかぶせられた帽子を持ち上げてみると、自分にすりよっている菊丸も驚いたように目を見開いている。
「……落ちていたぞ。それに、そろそろ練習再開だ」
 頭上から降ってきた言葉は、意外な人物のものだった。菊丸に転ばされたときに吹っ飛んだ越前の帽子を拾ってくれたのだろうけれど、これは、この声は。
 ふたりが振り向くと。そこには想像通り、青学男子テニス部最高権力者、厳しい鬼部長と名高い手塚国光が仁王立ちしていた。
「……て、手塚?」
「……ども」
 恐る恐るの菊丸の声に合わせて、越前は帽子のお礼を言った。自分でも、間抜けた声だ。
「菊丸」
「はい?」
 救いを求めるような瞳で見上げてくる菊丸を、厳しく手塚は一瞥して。越前を抱えたまま早々にも逃げ腰の菊丸に、お決まりの台詞を放った。
「グラウンド10周」
「あ、やっぱり?」
 にゃはは、とごまかすように笑いながら。菊丸がしぶしぶ越前から手を離す。それでも、越前に未練たっぷりなのは見て取れた。う〜、と越前を大きな目で見つめてくる。
 言葉遣いと身のこなしの印象からか、どうにもこの先輩は猫、というイメージが確かに以前から越前にはあったのだが。先程の行動でそのイメージはすっかり定着してしまった。今は、しょんぼりと、幻の猫耳が垂れ下がっているのが見えるようだ。
 とはいえ、そんな可愛らしい顔で拗ねて見せられてもどうしろというのか。越前は困ったように考えをめぐらせる。たしか無邪気なだけに危険極まりないこの先輩には保護者がいたはずた。そう。たしか。
 と。菊丸の肩を軽く叩いた人物がいた。菊丸のダブルス黄金コンビの相方、青学男子テニス部の良心、大石秀一郎副部長だ。
 つまり、今越前が考えていた、保護者の登場、というわけである。
「あ、おーいし!!」
 いつでも自分の味方をしてくれる大石の姿を見て、現金に菊丸が甘えた声を出す。それに優しく大石は微笑んで。
「英二。ランニングが終わったら、英二の好きなクロス練習だから」
 にっこりと優しく宥めながらも、しかしランニングは止めないらしい。この辺が副部長のアメと鞭なのだろう。
「だから、頑張って走っておいで」
 それでも優しい相方の言葉に、菊丸はぱっと笑顔になって。
「うん!!」
 良い子のお返事を残して、そのまま校庭10周のランニングに出かけてしまった。
 その切り換えの早さというか、気まぐれというか、なんというか。そしてその軽やかに走る足取りを見て。
 ……やっぱり猫だ、あの人。
 越前はどこか感心するように思った。
 つい菊丸を見つめていた自分と同じ方向に大石が視線を向けているのに気付いて、越前は大石を見上げる。
 菊丸を見つめる大石の目はなんだかとても愛しそうに細められていて。越前はどうしたものかと、かぶせてもらった帽子を直してみる。
 それから、ふと思いついた。
「……俺は走らなくてもいいんスか?」
 聞いてみると、腕組みをしたまま手塚は無愛想に言った。
「お前は菊丸に転ばされただけだろう」
 その言葉を引き継ぐように、大石が越前をすまなそうに見て。
「英二が悪いな、越前。大丈夫か?」
「……いえ」
 別にこの人が謝る事でもないと思うが。しみじみ苦労性な副部長の優しさは、それでも越前にとっても不快なものではない。
 それから、ふたりが妙に自分の顔をびっくりしたように見ているのに気付いた。
「……なんかついてますか?」
「あ、いや……」
 大石が何とも複雑そうな顔をして、こっそり越前にささやいた。
「後で鏡を見てごらん」
「はぁ?」
 その一部始終を、桃城武は越前に声をかけようとしたポーズのまま、呆気に取られて眺めていた。

「わざわざ部長自ら止めに行くとはね〜」
 相変わらずにこやかなのにどこか感情が読めない無敵の笑顔をたたえたまま、天才と謳われる不二周助は手塚に言った。
「大石が英二を迎えに行くより早いとはね」
「……なにが言いたい、不二」
 こちらも変わらず無表情のまま、手塚は抑揚のない口調で答える。そんな手塚の反応は無視して、不二はくすくす笑いながら、ベンチに座っている手塚の隣に陣取った。
「いや僕としては、もうちょっと子猫ちゃんたちがじゃれてるのを見て目の保養をしたかったのを手塚に邪魔されたから、意趣返ししているだけだよ」
 あっさりと返す不二に、手塚は黙り込んでしまう。
「………」
「あのふたりが一緒にいると、ほんと可愛いよね」
 その言葉には、ふたりが座るベンチの隣で練習メニューのメモを取っていた大石が反応して、すこし乾いた笑いを漏らす。
「………ははは」
「毛色の違う子猫がころころしてるみたい」
「………」
「まだ子猫だからいいけどね。子猫はすぐに大きくなるよ?」
「………」
「すこしは焦った方がいいかもねぇ」
 妙に楽しそうな不二と、無反応なままの手塚。
 どこか異様な雰囲気に包まれたベンチに苦笑して、苦労性の大石副部長はメモに専念する事にした。

「……なに、これ」
 親切な大石副部長の忠告をすっかり忘れ果てていた越前が、額にぺったりと張られたバンドエイドの模様が思いっきり可愛らしい猫のキャラクター商品のものだと気付いたのは、次の日の朝、洗顔を済ませて鏡を覗きこんだときのことだった。

 はやくはやく。どうか捕まえて。あなたの手で。
 まだまだ子猫で、あなたの手の中に収まりやすいうちに。
 はやくしないと―――。


END




●あとがき●
……初テニプリなんですが……。なにがしたかったんだ星野!!ってカンジで申し訳ないです(涙)。しかもおもむろに恥ずかしいタイトル。とにかく星野は子猫ちゃんズ(王子と菊丸)が大好きで、ふたりがいるだけで幸せなのです。いつか憧れの菊リョ菊(リバ可(笑))も書いてみたいものですが。っていうか、このサイトに来てくださっているお客様の中で、この話を喜んでくださる方はいるのでしょうか…ちょっと不安です(汗)。どきどき。とにかく、テニプリでは、王子は格好良く!!菊丸は可愛く!!がひたすらモットーです。どんなカップリングのときも(笑)。



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