見霽かすかぎりの雲の原――そこは眩いばかりの光熙にみちた神々しい世界だった。
セルディーネはひとりぽつねんと立ちつくし、所在なげにあたりを見まわしていた。
遠い昔、どこかで見たことのある光景。そんな、確信があった。
……やおら、吹き渡る一陣の風。その風が徐々に収束して人の輪郭をなした。
戸惑うセルディーネの目の前には半瞬後、一人の老人がいて、彼女を見つめていた。
老驅に纏う純白の法衣。右目は義眼とおぼしく、水晶玉のようなものがおおきく露出し、長い白眉の下からわずかにのぞく左目の金色の瞳は、かぎりなく温かく、慈愛に満ちたものだった。
誰だろう? このおじいさん……
犯し難い威光にみちた佇まいの隅々に、深い叡智と大悟の境地を端倪せしめるにたりる雰囲気があった。ただ、セルディーネをまっすぐに見る瞳はあくまでも優しく、ゆえにその厳かな印象もだいぶん緩和されて、一個の福々しい好々爺とでも云えないこともない。
ふと、皺深い顔が笑ったように見えた。
山羊のような顎鬚と長い白髭に覆い隠された口が、何やらもごもごと耳馴れない言葉を紡いだ。意味は分からなかったが、無性に懐かしい気がした。
セルディーネはそっと目をとじて、その訳の分からぬ既視感に導かれる不可思議な高揚に、精神をゆだねた。
(Φ♂∞*◎刀噤凵♪τξδ!……)
いにしえの賢者のおもむきを漂わす老人は、幽かな声で歌うように何事かを囁いた。
清冽な空間中の「何か」がゆっくりと凝縮していき、淡い蒼穹色の微光を宿すそれは、ふわふわと空中を漂って、やがてセルディーネのさしだした手のひらに静かに握られた。
老人が、こんどははっきりと微笑んだ。その姿は次第に希薄となっていき……ほどもなくこの透明でけだるい光に充ちた、奇妙に心地よい幽遠の世界に溶け込んでしまった。
再びたったひとり、広漠の雲の原に立ちつくすセルディーネ。その足許がにわかに頼りないものとなり、セルディーネの意識は間断のない失墜感につつまれて、どこまでも落ちていった。
遥かに遠くの何処かから、誰やらがセルディーネの心に語りかけていた。
(ゆめゆめ御油断めさるまいぞ、姫。ふたたびあの者共を覚醒させてはなりませぬ。……貴方様の果てしなき鵬程に、クベルニアス・ド・カナーセルの祝福と御加護があらんことを……)
「――う……う〜ん……ん!?」
ベットの上で不意に身を起こした少女は、しばしの間放心したように虚空に視線をさまよわせた。
エルフの種族的特徴である尖耳の先端がピクリと撥ねる。鼓動が早い。
いくすじかの前髪が、汗に濡れた額に張りついている。ややあって、左手の甲で額の汗を拭う。寝間着もまたじっとりと寝汗をふくみ、肌にまとわりついて不快この上もない。
(夢……?)
しかし、夢というには鮮烈に過ぎ、うつつと呼ぶにはあまりにも感覚が欠落している。
少女は思考の靄を払うように頭を振ると、カーテンの隙間から窓の外を何気なく覗いた。
朝まだきの清澄な世界。どこやらで一番鶏の声がする。
「さむーっ」
少女は着替えようと思い立って――ふと、不審げに眉根を寄せた。
寝相がわるくて鬱血でも起こしたのか、右腕の上膊から指先にかけて軽い麻痺感があり、そのために今まで気付かなかったのだが、右手で何かを握りしめている。
(あれ? なにこれ?)
硬質で冷たい感触――石か?
目の前に翳してみるが、薄暗い部屋の中ではよく見えない。少女は人差し指を立てて、指先に念を込めた。
「ラヴィル……シールエスタ……グリーティア……」
呟くようなルーンの詠唱。しばしあって、少女の指先にぽっ……と、あえかな輝きが点る。
取りたてて魔法というほどのものではない。太古の宇宙に覇を唱えた魔法文明の中枢にあって、現人神と謳われる四大魔法使いを翼亮した魔導司(ルーンゼイテス)、その誇り高き末裔たるエルフにとっては、歩くにも等しい行為だった。
もっとも、こうした偉大な祖先たちの血から受け継いだ幾つかの先天的異能が、こんにちのエルフ族に不幸を招いたのも事実である。
少女の念を触媒として生み出された小さな光球が照らし出したのは、紅い宝石……体裁よく研磨された結晶が、青白い魔法光を乱反射している。それは、魔性めいた妖しい美しさだった。
少女は恰も魅入られでもしたかのように紅い石を指先で弄び、しばらくのあいだ見とれていたが、ちょっと身震いしてから思い出したように寝間着を脱ぎ、これを手近にあった安楽椅子へ無造作にほうった。下着姿になると、まだ温もりの残るベットの中へごそごそともぐりこみ、そして小さく可愛らしいクシャミをひとつ。ぐす、と鼻水を啜る。
夜具から手をだして、また紅い石を光に翳す。少女の血色のいい頬にピンク色の影がおち、手の動きに合わせて踊るように微妙に色合いを変化させた。
(ほんとうに綺麗な石……でも、なんだってこんなモノ、持ってんの? あたしってば……?)
紅い石には瑕瑾ひとつ、見当たらない。ただ、結晶の中には何やら幾何学的な紋章が認められ、いかにも曰く因縁ありげに存在感を主張してやまない。
(そういえば……)
少女は今朝の不思議な夢を反芻しようと試みるが、微かな頭痛を覚えるのみだ。
(あ〜やめやめ。寝よっと)
目を閉じてしばし、ベットの上を輾転としていたが……頭がヘンに冴え渡って、再び快い眠りがおとずれることはちょっと望めそうもなかった。
階下の台所では、がたごとと物音がする。シチューを煮付ける匂いや、パンを焼く香ばしい香りが、寝起きの胃を刺激した。全能の魔導司の後胤といえども、ハラは減る。
(もう起きちゃおーかな。おなか減ったし。……よし!)
秋の深まりとともに朝の冷え込みもけっこう厳しく、起床にはいささかの決心を必要とする。
少女もまた幾ばくかの心の葛藤を経て、どうにかこうにか温かい安息のベットから飛び起きるを得、何かに追い立てられるようにテキパキと下着を替え、衣服を着た。ポケットには件の紅い石。
食堂兼用となっている一階の台所へ下りていくと、母親が朝食の準備に余念なく立ち働いていた。
「あら、おはよう。今朝はずいぶん早いのねぇ、セラ」
少女――セルディーネ、愛称セラは、ここジュナースの村に暮らすエルフの娘である。
「ん、おはよー。あれ? お父さん、もう起きてんだ……」
四人がけの食卓の父親の指定席には、すでに食事を終えた形跡があり、父親愛用の食器類が、テーブルの片隅で几帳面に積み重ねられている。セルディーネは目ざとくこの様子を見て取り、目線で母親にたずねた。
母親はお玉杓子片手にシチューの味見をしていたが、背を向けたままでこれに答えて云う。
「とっくに出かけたわよ」
「へー早いんだね。仕事? 工房?」
父親は村唯一の錬金術師である。もっとも、太古の御先祖たちが営々と築きあげたおおいなる魔法の知識や技術は、その殆どが失われて久しく、今や錬金術師とは名ばかりで、仕事の内実は鍛冶屋や工匠とたいして変わらない。
ただ、さすがに自然科学分野における造詣の深さは、他の職業の追随を許さず、ために巷間の敬仰を受けることしきりなのだ。
父親ならば職業柄、例の紅い石について何か知っているかもしれない。
(あとでお父さんに見せてみよう……)
セルディーネは鏡の前に立って、慣れた手つきで黄金色の髪をブラッシングし、いささか無造作なかんじにポニーテールを結わえながらそんなことを考えていたが、その目論見に水を差す母の一言。
「とうぶん帰らないわよ、お父さん」
ふと、手をやすめて振り向き、セルディーネは母に問うた。
「え!? 何で?」
「イフェル政庁の役人さんが、夜半にお父さんを迎えにきたの。評議会が非常召集されたんですって。……あんたたちも起こそうかと思ったんだけど、お父さんが、二人とも学校があるんだから寝かしとけって云ってね……」
「メルティレットへ行ったの!? いいなぁ! あたしも行きたかったなーっ!」
一般に《水の都》の瓊名で知られるメルティレット市は、ジュナース村のあるイベルニア大陸と東方のフォイレート大陸を隔てる青玉海(サファイア海)の洋上に建設された街で、人口およそ二百万人。これはイベルニア、フォイレート両大陸を見渡しても最大。惑星イフェルでも一、二を争う大都市である。
政治、経済、文化の中心として繁栄する《水の都》に、もだし難い憧憬を懐く者は数多い。セルディーネもまた御多分に漏れずメルティレット礼讃派の急先鋒で、これはまあ、好奇心旺盛な年頃の娘にとっては無理からぬことであろうか。
「なに云ってんの。お父さんは仕事でしょ。バカな事云ってないで、顔洗ってきなさい。せっかく早起きしたんだから、たまにはお母さんの手伝いでもしたら?」
「はぁい」
今は昔、人間たちによる苛烈なエルフ狩りの魔手を逃れたエルフたちが、コルトナイド世界の辺境に居住可能な自然環境をもつ星を発見してこの地に降り立って以来、イフェルに住まうエルフ族は、寡頭共和制を布いて経綸のいしずえとしてきた。メルティレット市に議事堂を設ける《聖民評議会》は、その最高統治機関である。
定数二百名の聖民評議会を構成する評議員の多くが、よわい千歳前後の長老エルフたちだったが、セルディーネの父ヨーゼフは、弱冠三百歳という若さにして終身評議員の地位を得、その名をイフェル政庁に連ねていた。温厚篤実な人柄もさることながら、やはり錬金術師としての該博な見識が、長老エルフたちに買われたようだ。
「セラ〜! ちょっと、いい?」
顔を洗おうと、洗い場に据え付けの喞筒をせっせとこいでいたセルディーネに、声がかかる。
「なぁにーお母さん?」
「わるいんだけど、小屋いって薪とってきてくれないかしら。台所の、きらしてたの」
「か弱い女の子の細腕に、重労働させよおってーの?」
「そういえば、そろそろ収穫祭の時期よねー。ン? セラちゃん?」
「……いってきまーすッ!」
家計の全権を掌握する母の御機嫌を損じて、なけなしのお小遣いの査定に悪しき影響を及ぼすのも得策ではない。
セルディーネは薪入れ用の大きな背負い籠をひっつかむと、脱兎の如く勝手口から戸外へととびだした。一瞬、外気の冷たさに鳥肌立つ。はく息が白い。
村の東側に連なる山の稜線をかすめて、暁光がさしこむ。毒々しいほどに鮮烈な朝焼けは、季節が晩秋にさしかかったきざしだろうか。
(う〜さむい〜っ。暖炉に火ぃ入れてもらおーか……って、お父さん、しばらく留守なんだっけ)
さくさく仕事をやっつけようと、セルディーネは家からすこし離れたところに建つ小屋へ移動を開始。――が、唐突に奇妙な違和感を覚えて、思わず立ち止まる。
「……何か……ヘンだ……」
思惟にかられることしばし……
(どういうこと!? 星の配置がちがうわ!?)
天文学はあまり得意な科目ではなかったが、それでも毎日見馴れた夜空の星見くらいは、エルフ族の素養というものである。
こんな時刻に肉眼で観測できる天体など、太陽とイフェルのふたつの月を除けば、同一星系内の他の惑星か、気紛れな彗星に限られる。
しかしそれでは、セルディーネの目に映る光景――紫色に染まった西の空、いままさに夜の帷があがろうとしているそこに、無数の光点が不気味に明滅しているのは、そも一体何事か?
(あれは……星じゃない)
かつて、星々の大海原に雄飛した者たちの末裔に当たる少女。その胸中に去来する不吉な直感。
セルディーネの上着のポケットの中では、紅い石が人知れず輝いていた……。
〜第1話へ〜