やわらかな光が、テラスに面した全面硝子張りの壁を通して室内に射し込み、絨毯の上に透かし模様の影を落す。
豪奢な天蓋付きの四柱寝台から起きだした少女は、スリッパをつっかけず素足のまま窓辺へと歩みより、おおきな窓を開け放った。清爽な朝風にひるがえるレースのカーテン。
森や草原、朝日にきらめく川の流れ――俯瞰される眺めは明媚なものであったが、それは少女の見慣れた光景ではなかった。
(ここはレーゼンテのお城じゃないんだわ)
少女はその事実を再認識した。
ノックの音がして、ソーコ夫人を先頭に何人かのメイドたちが部屋へ入ってきた。控えの間で、マリィが起きた気配を察したのだろう。
「おはようございます、ひい様。ゆうべはよくおやすみになられましたか」
ソーコ夫人が挨拶した。
「ええ。とっても」
「お召し替えをさせていただきます」
「はい」
着替えくらいいちいち人手をわずらわすまでもなかったが、京師には京師の作法があるのだろうと思い、マリィはされるがままになっていた。
「お父様は? もう宮中に参内なさったの?」
メイドの一人に髪を梳られながら、ソーコ夫人にきいてみる。
「いえ、本日のご出仕は午後からだそうでございます。久方ぶりにひい様や若君とご一緒に朝食を摂ると申されて、楽しみにしておいでですわ」
着替えを終えたマリィがソーコ夫人に導かれて食堂へと行くと、既に父男爵コレンが席について待っていた。
「おはようございます。お父様」
「お、来たか。おはよう。さ、席につきなさい」
マリィは微笑んだ。日頃何かと気難しい父が、嬉しげにそわそわしているさまが可笑しかったのだ。
給仕の従僕が恭しく椅子をひき、マリィは長さ二〇フヤールほどもある大きな食卓についた。
やがてカールもやって来た。
「父上、姉上、おはようございます!」
「おう、カール! ほんの半年ほど見ぬ間に、また背が伸びたな。いやいや、男児三日会わざれば刮目して見よとはいみじくも申したり。はははは。よい子だ」
騎士団にその人ありと天下に驍勇をとどろかす大丈夫も、今この場では子煩悩な父親であるにすぎない。
朝食を終えると、コレンがあらたまってマリィに云った。
「そなたも聞き知っていることとは思うが、宮廷に上がるには《聖刻の儀》を受けねばならぬ」
コレンはみずからの額を指し示してみせる。帝国貴族であることの証――幻獣レンゼスを意匠とする紋章の刺青がそこにある。
明確な年齢の規定が存在するわけではないが、だいたい十五歳から二十歳に達したゼラン皇族・貴族の子女は、《聖刻の儀》によってレンゼスの紋章の刻印を額に受けた後、はじめて宮廷に伺候を許され、議請減贖ほか封地爵位の世襲等さまざまな権利を認められるのだ。いわば、貴族の成人式である。
この風習の由来は古く、二十二世紀にさかのぼる。
この頃は雪華星雲の覇者、カリューガ朝トルキア王国のクリスティナ聖王が、水晶星雲の呑噬を企図して、さかんにゼラン帝国に侵攻を繰り返していたが、この時代に生きたひとりの烈姫の伝説にちなんだものが、《聖刻の儀》であった。
クリスティナ聖王の大軍がこの京師にせまったとき、常に祖国防衛の戦いの陣頭に立ち、みずからは壮絶な戦死を遂げながらもついにトルキア王国軍を撃退せしめた救国の英雄、それが当時の皇帝フェンネーズ四世の第一皇女カスーネ姫である。彼女はことさら剣をよく使う女傑であったわけではなく、まして用兵の巧者であったというわけでもない。それどころか、兵事などにはまったく無縁の、絵描きが趣味というごく控えめな姫君であった。が、カスーネ皇女が陣頭にあると阻喪した士気も不思議と鼓舞され、ゼラン帝国軍は、コルトナイドの諸国に常勝不敗と畏怖されたクリスティナ聖王の無敵艦隊を向うにまわして、互角以上の戦いを演じたのである。
このカスーネ皇女が、はじめ父帝に前線での督戦を申し出た時、朝堂の重臣や大本営の元帥たちは、カスーネの変節を危惧した。というのも、敵方の総大将クリスティナ聖王とカスーネ皇女との恋仲は、市井の子供でさえ噂するほどに有名であったからだ。
謁見の間において群臣の環視するさなか、フェンネーズ四世帝はカスーネ皇女を諭そうとしたが、カスーネ皇女はおもむろに短剣をとりいだし、髻から豊かな金髪を断ち切って二心なきことの誓いをたてた。さらに神々に味方の大勝利と怨敵討滅を祈願するべく、軍神ケイゼリュークにその身を捧げるあかしとして、秀麗なその額に幻獣レンゼスの紋章を刻み込んだのだ。
この時、カスーネが密かに父帝に語ったとされる謎の言葉が、宮廷の吟遊詩人たちにより後世に伝承されている。曰く、
「先年、陛下が招聘あそばされた大賢者マージョリィ様が、特にわたくしに、あるひとつの予言をもって付託されました。賢者様は、こう申されました。――聖王は古きコスメテル・リーフラートの魔性に魅入られておいでである。ふたたび《恒常律》の禁忌を犯せしとき、もはや誰かこれ破局のさだめをば止めえんや。コスメテル・リーフラートの秘密は、およそ人たる者が触れてはならぬものなのです。聖王もし道を過てるとき、貴女様が世の屏蔽たらねばなりませぬ。聖王を想うならばなおのこと、彼を魔王に墜しめてはならぬのです。お分りか? いずれ思い当たることもありましょう。もっとも、この隠者などには、そのような日が来ぬことを祈るしかないのじゃが――。凡庸なわたくしごときには、賢者様の深遠なお言葉のすべてを理解するべくもございませんが、これだけは確信しております。何かよくない方向に進みつつあるあの御方を止める可能性がもし幾許なりあるとするならば、わたくしの身命を擲つよりほか、わたくしはなすすべを知りません」
歴史の裏側でどのような思惑が錯綜していたのか、今となっては知るべくもないが……のちにカスーネの散華を知ったクリスティナ聖王は、臣下の目をもはばからず号泣し、さしも稀代の英傑も、悄然として兵を収めたのだ。カスーネ皇女、享年二十三歳であったという。
この伝説のカスーネ姫の故事に倣い、帝国および帝室への忠誠を神々と烈姫カスーネの英霊に誓約する儀式として、《聖刻の儀》が執り行われるようになったのである。
「次回の《聖刻の儀》は二ヶ月後であるが、いろいろと準備もあることゆえ……そうだな、そなたの宮廷御披露目は来年の初めになると思う」
《聖刻の儀》は一年十五ヶ月のうち、オストラシオの月(一月)、ケイゼリュークの月(六月)、ジムールの月(十一月)と、五ヶ月毎に年三回行われる慣例であった。
「まだ七ヶ月ある。その間に、宮廷のしきたりや礼法、舞踏などを修めてもらわねばならん。もらわねばならんのだが……我が家は典礼関係にはいまひとつ不調法な武門の家。どうも心許ないのでな、そこで親類のご好意に甘えることにした。母上の実家からは本家筋にあたる、レグルス家は存じ上げているね?」
「はい」
諸親王家や大公家に次ぐ格式をほこる四選帝公家の一角を占め、皇位の継承にも一定の発言権を有する名門中の名門である。
「当主レグルス公爵閣下はたいへん厚情な御方でな、我等のような下級貴族のこともいろいろ気にかけてくださる。そなたの宮廷披露のことも聞こし召され、一族の棟梁として後見人を引き受けてくださるとのまっこと有難き御諚である。そこでそなたの同意を得られれば、レグルス家に行儀見習いにあがってもらうことになるが……どうだね? もちろん、気がすすまなければお断りしてもよいのだよ」
内気なマリィの性格を慮って、コレンはそう云った。
「分りました」
「ふむ。お受けしてもよいのだね。――おお、そうだ! レグルス公爵には今年十歳になるお嬢様がいらっしゃるそうだ。うちのカールと同い年だな。アリエル姫と申されるそうだが、マリィに是非友達になってやってくれまいかと、公爵が申されておった。カールもいずれ典学院に入れば、御学友ということになるかもしれんな。あとは……ソーコ夫人、何かあったかな?」
「ひい様の御披露目の衣裳を仕立てませんと」
「おお、そうであったな。どうもわしのような武骨な父親では、そのようなことにまで気がまわらぬ。娘の晴れの門出であるというのにな」
「お父様ったら……マリィはなにも、婚礼に赴くわけではございませんわ」
「ははははは」
「ほほほほほ」
コレンやソーコ夫人が和やかに笑った。
「しかしマリィ、我等帝国貴族にとっては、婚儀に勝るともおとらぬほど《聖刻の儀》は重要な意味合いを持つのだよ。ことに貴婦人たるものにとっては、さながら武人の初陣するに似たり。大将首をとれだの一番槍だのとは云わぬが、臆して敵前逃亡の不覚はとるまいぞ」
「御館様。ひい様ならば大丈夫ですわ。一昨日も横柄な軍艦の艦長に対し、きちんと筋を通して御立派に振舞われたのですから。わたくし、さすがは御館のお子様と見直してしまいましたわ」
「ばあや。もうその話はいいでしょう」
マリィは恥ずかしそうに赤くなった。
「ふむ。聞いておるぞ。ルディオローナ鎮守府の軍艦をやり込めたそうだな。なかなかどうして、天晴れなものだ。ははははは」
「けれども……」
マリィが心配そうに云った。
「けれどもその軍艦には、とても高貴な方が乗艦あそばされていたようです。後で伺えば皇族の御方であるとか……」
「ユーキ・アーファン・ゼルティア子爵殿下だな。先頃ノイザー方面艦隊の総司令官に就任され、アクアガルト王国への遠征を控えておられる」
「後日、難しいことになりませんでしょうか」
「なに、心配はあるまいさ。わしは直接お会いしたことはないのだが、とても磊落で気さくな人物と伺っておる」
「そういえば、近衛騎士団の方がご一緒でした。お父様を存じているようなことをおっしゃってましたわ」
「皇族出身の将軍や提督がたには、護衛を兼ねて近衛の者が副官に付く慣わしだからな。ゼルティア子爵殿下には誰が付いておるのだったかな? ん〜ちょっと思い出せんなぁ」
コレンは首をかしげた。
「――まぁよい。ソーコ夫人」
「はい。御館様」
「衣裳のほうについては、あなたに任せてもよいかな。金に糸目をつけるなとは申さんが、まぁ家格に恥かしからぬ程度にな」
「かしこまりました。多少、心当たりがございます。ソレル街城のほうにとても腕のいい職人がいるそうですわ。なんでも諸親王家の御用もおおせつかっている、最近評判の仕立て屋だそうで。わたくし、後で出向いて仕事ぶりを調べてまいりますわ」
「あ! ぼくも行く! ばあや、ぼくも連れてって!」
難しい話には参加せず食後のお茶に専念していたカールが、俄かに愁眉を開いたかのごとく顔を輝かせた。
「はいはい。それでは若君の新しい服もお作りしましょうかねぇ」
「やったーッ!」
「これこれ、ソーコ夫人。あまり甘やかしてくれるな。カール、無駄遣いはいかんよ」
彼方此方の山々や遠くに霞む森の木々。地平の果てまで続くかと見紛うばかりに広大なその庭園の、大小の湖沼が点々とある辺り、瀟洒な古城がその美しいフォルムを鏡のような湖水の上に映していた。
年間を通じて気候が温暖なこの星――帝都ニーブレン星系第五惑星《外苑》。地表の各大陸に点在する諸侯の邸宅の中でも、屈指の広壮な屋敷を構えるその家のあるじは今、三人の男を相手に、庭の一隅にある湖上の城、見晴らしののいい塔のうえで茶席をもうけていた。しかし、賓客を款待するというふうでもなく、のどかな風景やけだるい午後の日差しとは裏腹に、なにやら張り詰めた、ただならぬ空気がそこに満ちていた。
「公! ご決断を……このままあのいまいましい女狐どもの専横を座視すれば、後宮のみならず、早晩、朝堂は彼奴等のほしいままに壟断されましょうぞ。こぞの春、アシュ・エルク太傅公が更迭された政変をはやお忘れか? 聖上ご幼少のみぎりより守り役としてお仕えしてきた、あまつさえ陛下の岳父でもあらせられた忠勤比類ないアシュ・エルク老公でさえかくのごとし。確証はないが、貴妃方の讒奏であると私はにらんでおります」
いかにも大貴族然とした初老の男が、この古城のあるじにむかって熱弁をふるっていた。
「彼奴等のさしがねに決まっておるわ!」
黒い軍服を着た鷲鼻の男が、どんとテーブルを拳骨で叩いた。帝都防衛総司令官にして憲兵総監、ムーゲン伯爵ポーン大将である。
「おおかたロゼリーヌ貴妃の内意を受けたテック伯爵かジン子爵あたりが、あることないこと皇帝陛下の御耳に入れたてまつったのであろうよ。あやつら、リスナール皇子殿下やドイルズ侯を追い落としただけでは厭き足らず、国舅たる御方をも陰謀の毒牙にかけおった」
去年、ゼラン宮廷を震撼させた政変、皇后の実父たる老アシュ・エルク選帝公の失脚は、正皇后ルーゼメイスと、皇帝の寵妃たる貴妃ロゼリーヌ・ベールトリアとの確執を決定的なものとした。これには皇太子冊立にからんだ長年の軋轢が背後にあり、それぞれを支持する諸派閥の思惑も入り乱れて、政争は今やぬきさしならぬ事態になりつつある。
今上皇帝カールリート五世は、皇后ほか十五人の側妃との間に、十二人の皇子と九人の皇女をもうけた。とりあえず皇太子の有力な候補となるのは十二人の皇子たちということになるが、このうち二人は幼くして病に亡くなり、二人が不慮の事故で横死している。また六人は有力な後ろ盾がなかったり、母方の血筋に問題ありとされたりして脱落し、或る者は臣籍に下り、或る者は神殿に入って祭司となった。
かくして皇太子候補は、第五皇子リスナールとまだ幼い第十一皇子ランディールの二人に絞られたかに思われた。貴妃ロゼリーヌは、候補の一方、第十一皇子ランディールの生母である。
帝国標準暦4140年。ちょうど四年ほど昔のことになるが、魔海の蛮族イルティーバを中心とする兵乱が起こったとき、魔道師アルゼンを名乗る賊の首魁とリスナール皇子が通謀しているとの嫌疑がにわかに持ちあがり、身の危険を察知したリスナール皇子が、魔海の大国炎樹連邦へ亡命するという事件が起きた。
この事件はランディール皇子を擁立しようとする一派に格好の口実をあたえ、リスナール皇子は弑逆を企てたかどで大逆罪にとわれ、いっさいの地位と権利を剥奪された。リスナール皇子の母カルゼナ貴妃は服毒自殺を遂げ、ドイルズ侯を筆頭とするリスナール派貴族は次々に粛清されていった。
わけても悲惨をきわめたのがリスナール皇子の一族郎党である。皇子の妻子はうら若い美姫から生まれたばかりの赤子にいたるまで、一人残らずひっ捕らえられて磔刑に処され、リスナール皇子邸に乱入した近衛兵団は、血に飢えた魔獣さながらに逃げ惑う人々を斬り殺し、メイドや衛士、はては料理人や下働きのおばさんまで、老若男女を問わず、のべ五万人ちかい陪臣や使用人の首をはねた。
これら一連の凄惨な事件は、帝国標準暦4140年ミール・テルセンの月の出来事であったため、通称《十二月の変》と呼ばれている。
十二月の変後、貴妃ロゼリーヌ一派の専横な振る舞いがいよいよ目立ちはじめ、ゼラン連合帝国における最も枢要な機関である朝堂の組閣人事にまで干渉し始めた。
これに危機感を抱いた帝室の二長老、パルトラ親王とガストリア大公は、この頃まだ健在であったアシュ・エルク選帝公にも諮り、第八皇女フィアンナ・アーネゼル姫の擁立を画策する。フィアンナ・アーネゼル姫は、男子を得なかった正皇后ルーゼメイスの唯一の子である。
かの有名な雷光帝カンナートをはじめとして過去に女帝の前例がないでもなく、また嫡出ということもあり、ロゼリーヌ一派の専横を憤る諸侯はこれを支持するに違いない……三人の重臣たちはそう踏んだ。ところがフィアンナの母、ルーゼメイス皇后がこれに難色を示した。
「これは社稷の元老たる皆様のお言葉とも思えませぬ。あの子はまだ、たったの六歳なのですよ!? 先年のリスナール皇子の奇禍は、皆様におかれても記憶に新しいはずです。わらわは、あの子をそのような恐ろしい争いにまきこみとうはない。さがりゃ!」
と、とりつく島もない。
「う〜む……困ったのぅ」
「どうじゃろうか、御両所。フィアンナ姫と将来娶わせることとして、摂政候補を立てては」
皇帝の妻が皇后となるように、女帝の夫君は摂政になるのがゼラン帝室の過去のありようであった。
「そうか! その手があったか!」
「フぅム。確かに名案かもしれんが……して誰を推す?」
「ほ〜れ、おるではないか。一人うってつけの若者が。都合よく当のフィアンナ姫からも兄のように慕われておる」
「あ! ――なるほど」
「セルベリート帝の玄孫であり、血は申し分ない。おまけに若いながらも、なかなか名将の器量をそなえておるようだ。一昨年の魔海兵乱の戡定で、武勲もたてておる」
「よし、折をみて私が説得してみよう。国家ひいては万民のためでもある」
そんなこんなで、ユーキ・アーファン・ゼルティア子爵が担ぎ出されようとしていた矢先、前述したごとくアシュ・エルク選帝公がカールリート五世の勘気に触れ、蟄居させられたわけである。現在、アシュ・エルク老公は失意の病床にあるという。
ポーン大将が古城のあるじに詰め寄った。
「彼奴等がこうもあからさまに九五の御位への野心を剥き出しにしてきたとなると……公。次は貴方が狙われましょう」
最初古城のあるじを熱心に説いていた初老の貴族、ヤミュノーン伯爵もまた云った。
「ポーン大将のお言葉然り。貴妃方はすでに、選帝公家のひとつ、ウナス家に懐柔の手を伸ばしております。遠からず閣下にも何らかの働きかけはありましょう」
「よもや……貴妃方に左袒なさる存念ではありますまいな!?」
「卿らは……」
さきほどから瞑目して沈黙をまもっていた古城のあるじが、はじめて口をひらいた。挙措こそ穏やかであるが、片眼鏡(モノクル)の奥で怜悧な光をたたえる灰色の瞳には、人を圧する迫力があった。これなん、後に『鉄の宰相』の異名をたてまつられ、その豪腕でゼラン帝国の屋台骨を支えることになるレグルス選帝公その人であった。
「卿らは、先ほどから貴妃方を云々されておりますがねぇ。それでは卿らは皇后方ということになるのですか?」
「いや、それは……」
「かくべつ旗幟を鮮明にしているわけではござらんが、朝廷の藩翰たるもの、赤誠より国の行く末を憂えるのは当然ではありませんか」
レグルス公は、我が意を得たりとばかり微笑んだ。
「私もね、同じですよ。皇帝陛下から立太子の件で諮詢があれば、自分の思うところを奏上するまでのこと。それが選帝公のお仕事ですからねぇ」
ここでレグルス公は、もう一人の来客、ずっと黙ってやりとりを聞き入るかにみえた、端正な顔立ちの若者を見た。
「で、貴方はどういうお考えなのです? アルフレッド皇子殿下」
「はぁ」
若者は困ったような顔をして、頭を掻いた。
「よく分りません。なんとなく選帝公のお考えをうかがってみたかった」
レグルス公は苦笑した。
「貴方もまたカールリート五世陛下の第八皇子として、皇太子となられる資格をそなえておられますねぇ」
「私が? ははははは――ご冗談を。私の母はごく身分の低いメイドでした。有力な後見もなく、だいいち私自身にそのようなだいそれた意思は毛頭ありませんよ。ただ……」
「ただ?」
「異腹とはいえ兄弟ですからね。天下国家を論ずる以前に、骨肉の争いは見たくない……それだけのことです。いやはや、皇族としての気概に欠けますな」
「いやいや。至極まともな感性だと私は思いますよ?」
街の人込みのなかを歩く旅人ふうのいでたちの若者。吟遊詩人か楽師だろうか。若者は背に小さな竪琴を背負っていた。
その若者を離れて尾行する胡乱な二人組がいる。
「おい。本当にあの野郎でいいのか? 確かに人相描きにゃあ似てねぇこともねーが。青臭せーガキじゃねーか」
「マールズの旦那が間違いねェって云っていなさるんだ。ともかく見失わなねぇようにしねえと」
ちょうどその時、正午を告げる鐘が街中に響き渡った。
「アリエルさまーっ。どこにいらっしゃいますのー?」
長大な廊下は寂として静まり返り、マリィの控えめな呼び声すらがこだまする。ときおり聞こえるのは窓の外で微風が奏でる葉擦れや、雲雀の囀りくらいなものである。
マリィは長嘆した。
(まったくあの子は〜)
レグルス公爵の愛娘アリエル姫は、マリィの弟カール・レーゼンテと同じ十歳。どんな深窓の令嬢かと思いきや、案に相違して守り役たちが手を焼くじゃじゃ馬娘であった。
マリィが最初に目通りのためアリエル姫の居室に通された時、なんとアリエルはバルコニーから木の枝に乗り移りでもしたのか、庭の大樹へ登攀の真っ最中で、アリエル姫付のメイド頭とかいう老婦人が危うく卒倒しかけた。日頃のお転婆ぶりは推して知るべしである。
「あの時はお姉さまのことを、お父さまがよこした新しい家庭教師だと思ったの。それでかくれようと思ったの」
アリエルには兄が二人いたが女の兄弟はなく、旬日を置かずして、いつしかマリィをお姉さまと呼んで実の姉のように慕うようになった。臣下や使用人の子供たち相手だと、子供なりに隔意を敏感に察知してこうはいかないものらしい。そして意図したものではないにせよ、このことは親類から預けられた行儀見習いに過ぎなかったマリィの家門における立場を確固たるものにした。
アリエルがある時マリィを誘って云った。
「あのね。庭の向うに湖があって、とても綺麗なお城が建ってるの。行ってみない? ね〜、行こうよお姉さま」
庭と言ってもレグルス家邸宅の庭園は広大だ。ひょっとしたらマリィの家の領地であるトール星レーゼンテ地方よりも広いかもしれない。くだんの城とやらも、レグルス家の者に云わせれば四阿のような感覚なのだろうが、なにしろ視野のうちには見当らないのだ。
馬車で半日以上をついやしてその城に到着してみると、マリィはだいたいアリエルの思うところを忖度した。折しもアリエルの父、レグルス公が滞在していると聞いたからだ。
レグルス公は亜相(副宰相)の一人として朝堂の閣僚名簿(みょうぶ)に連なる帝国の重臣であり、その身は公務で多忙をきわめている。私邸に在宅なのは年に数日といわれるほどだ。
(アリエルさま……きっと公爵様にお会いになりたかったんだわ)
湖上のその美しい城に到着すると、アリエルは何かそわそわと落ち着かない様子で、マリィは城内をあちこちひっぱりまわされた。が、そのうちにアリエルとはぐれてしまい、見知らぬ場所でこうして途方に暮れているわけである。
とりあえず一人でアリエルを探すほかない。そのうちに従僕かメイドでもいるかもしれない。
(あ……)
ふと、廊下の曲り角の先に人の気配を感じ、マリィはドレスの裳裾をつまんでそちらに駆け寄った。
「きゃっ!」
曲り角で出会い頭に誰かとぶつかり、よろめくマリィ。その拍子にドレスの裾を踏んでしまったため、危うく盛大に転倒しかける。
「おっと危ない。大丈夫ですか」
そのぶつかった相手である誰かが、咄嗟にマリィを抱きとめていた。
「ええ。ありがとうございま――」
なんとか態勢を立て直したマリィが自分を支えているその相手を見やると、立派な身なりをした人品いやしからざる若い男であった。
「おや、マリィ嬢ではないですか。どうしたんですか? このようなところで」
聞き覚えのある声。マリィは声の主を目で探した。若い男の後ろに、学者のような風貌の片眼鏡の男が立っていた。
「あ、公爵さま……わ、わたくしは、あの、その……」
マリィはにわかに、自分がとんでもない不調法をしでかしているのではあるまいかとの恐れと不安に駆られ狼狽した。
「ご無礼つかまつりました」
しどろもどろになってやっとそれだけを言うと、あたふたと一礼し、逃げるようにその場から退散する。
そんなマリィを何とはなく微笑ましげに見送りながら、若い男――アルフレッド皇子がレグルス公に訊ねた。
「どなたですか。今の可愛らしいレディは」
「親類の娘ですよ。宮廷披露をひかえるにつき、当家にて預かりおるものです。まぁ、まだまだ子供のことゆえ、先ほどの無礼は御宥恕くだされませ」
薄暗いその室内は、噎せかえるような異臭にみたされていた。ぎぃぎぃと何かがきしむ音。娘がひとり手首を荒縄で縛められ、あられもない全裸で天井から吊るされていた。その、もとは瑞々しかったのであろう肌は今や血の気が失せ、責め苦の痕は剛胆な戦士でも顔をそむけたくなるほどに痛々しい。
鞭打たれたところが紫色に腫れあがり、ところどころ皮膚が破れて血が流れている。焼鏝をあてられた痕も数ヶ所見うけられ、室内にただよう異臭の所以が察せられた。また、四肢の指すべてと両耳が削ぎ落とされ、片目がえぐり取られていた。空ろとなった眼窩から大量の血が流れ出し、体を伝って床に血溜りができていた。
「わた……くし……は……な、なにも……存じま……せ……」
「ほほほほ。なかなかにしぶとき小娘ではないか。まだ白状する気にはならぬと見ゆる」
嗜虐的なものをはらんだ声が歌うように云った。
「が、わらわとて暇ではないのじゃ。吐くがよい。そのほう、いずれの手の者か」
「……ウゥ……」
一見してそれと判る身分高い女が、鞭杖の柄で吊るされた娘の顎を持ち上げ、にたりと笑ってみせた。女の身なりこそおよそこのような場所には似つかわしくないものであったが、違和感はまったくなかった。それは、その女のまとう雰囲気のなせるところであろう。
「云いや。さすれば、せめて楽に殺してつかわそう。ン?」
艶冶たる美貌。それはしかし、背筋の凍るような酷薄さをひそめて、神話にある蛇女を思い起こさせる。
「さぁお云い。云え! 云わぬか!!」
「ギャアァァァーーー!」
女は娘のくりぬかれた眼窩に鞭杖の柄を突っ込み、ぐりぐりと引っ掻き回した。
「卑しきはした女の分際で、よくもランディールに色目をつかいおったな。わらわの愛しいランディールに。……あの子はの、行く末この世界を統べる帝王となるのじゃ。誰にも邪魔はさせぬ! そのほう、誰の間者か? そのほうがランディールに近付いたのは誰の差し金か!? 皇后か? パルトラ親王か? 答えよ!」
「ひぃぃぃぁぁぁ……お……お……慈……悲……を……も、もう……ころ……し……て……」
娘は今にも絶え入りそうなか細い声でやっとそれだけを云うと、気を失って動かなくなった。
女は舌打ちすると、部屋の壁際に控える男たちを顧みた。一人が頷くと、抜剣しつつ吊るされた娘へと歩み寄る。
「待ちゃ。その剣を貸すがよい。いたいけなランディールを誑かしたにっくき小娘。わらわがとどめをさしてくりょうぞ」
女は男からレイピアをもぎ取ると、舌なめずりして娘の乳房の間に切っ先をずぶずぶと突き入れた。哀れな娘の肢体がびくりと痙攣する。女はいささかの躊躇もあらわさず、じわじわと娘の下腹部まで斬り下げてゆく。その傷口から真っ赤な臓腑があふれだし、びちゃびちゃと床の上にこぼれおちた。
「このゴミを早々に取り片付けよ」
女は男に剣をわたして手巾を受け取り、血だらけの手を拭いつつ冷然とした口調で命じた。
べつの男が女の前に進み出てかしこまった。
「貴妃様。先刻よりテック伯爵閣下がお待ちであります」
「お待たせしたの」
ロゼリーヌが部屋にあらわれると、テック伯爵は長椅子から立ちあがり、胸に手を当てて蹲踞した。ロゼリーヌが傲然とさしだす手を捧げとって、その甲に恭しく口づけする。貴婦人への最敬礼である。ロゼリーヌの手に残る血の臭いにテック伯爵はわずかに眉をひそめたが、言葉にしては何も云わなかった。
「まず掛けられよ」
「は」
「で、今日は何用であろ」
「過日お耳に入れたユーキ・アーファン・ゼルティア子爵に関する情報ですが、その後、諜者が探りだしたところによりますれば、いささか容易ならぬ事態とあいなりつつございます」
その名を耳にしたとたん、ロゼリーヌの双のまなこに、かぎろいの瞋恚のほむらが燃え立つ。
「つまびらかに申すがよい」
「ゼルティア子爵とフィアンナ皇女を婚嫁せしめ、ゼルティア子爵を聖上の女婿とした上にて、則闕の御位に推挽しかるべしとの噂……どうやら塵囂とばかり申せませぬ。パルトラ親王とガストリア大公が中心となり、すでにこの運動に一味同心いたす諸侯は三十家を数えるとの、なかなか憂慮措くあたわざる情報です」
則闕の位とは適任者が不在である場合空位とされる慣例であるところの位官をさし、摂政大公と大元帥がこれに相当する。
「それはつまり、皇太子にフィアンナ・アーネゼル皇女を立てんとのたくらみか」
「御意」
「なんたる横紙破りか……老耄の年寄りどもめ! 奸智にばかりたけおる佞臣どもめ! ランディールという皇儲の資質をそなえた立派な皇子がおるというに、女帝を戴くなどとんでもないことじゃ」
「……」
「将来の禍根は除くに如くはなし。伯、なにか良計はないかや」
「すでに手は打ってあります。首尾をお待ちあれ」
「ほほほほ。さすがはテック伯じゃ」
ロゼリーヌはテック伯爵の手をとった。その碧眼が妖しく輝く。
「頼りにしておるぞよ」
(もうお昼か……そういやハラへったな〜)
正午の鐘を聞きながら、ユーミはふとそんなことを考えた。
「おぅ。そこの若けー楽師さん。活きのいいとこはいってんよー? どうでぇ。今夜の酒の肴に。一座のみんなに買ってってやんなよ」
「ん。また今度ね〜」
「まァそー云わずに見てってくんな。ほれ、新鮮だよぉー? 今朝水揚げされたばかりの……あ、ちょっと兄さん」
「あ〜しつこいぜ、おっちゃん。それに俺は女だ!」
ユーミは怒ったふうを装い、魚屋のおやじをふりきった。
帝都ニーブレン。コルトナイド屈指の巨大空間都市は、それ自体ですでに完結した世界であるといっても過言ではない。総人口一兆人といわれるが、それは民部省に戸籍を有し、正規の市民権を与えられた臣民の数であるに過ぎない。この星系に実際のところどれほどの人間がいるのか、その正確な数を把握している者は皆無であろう。
十二の天然惑星は王侯貴族や官僚、士分の者が住まうほか、政府関係の官庁などで占められている。市民たちは、この恒星系を球殻状につつみこむオールト雲中に点在する五百前後の魔工天体で暮している。
魔工天体とは、コスメテル・リーフラート魔法文明の遺産のひとつであり、錬金技術と魔法の粋を凝らして宇宙空間に建設された人工の星である。ここゼランでは都市星などと呼称されることが多いが、数億年という歳月を費やして形成された海や大陸があり、天然の可住天体にまさるともおとらない豊かな自然環境をそなえる魔工天体が多かった。
富裕な市民たちが多く住む都市星もあれば、全域が貧民窟と化した都市星もある。が、特に行政府が階級隔離政策のようなものを施行したわけではない。そうした秩序は長い歴史のなかでごく自然発生的に生まれたものだった。
ユーミが歩いている街は、どちらかというと下層に属する市民たちが多く起居する《ローゼルテ街城》という都市星の街区のひとつであった。
下層の民草とはいえ、そこは堅気なたつきをもって糊口を凌ぐ人々である。貧民窟のように、毎朝路上に何百人もの斬殺死体が無造作にころがっているような極端に治安が悪い街ではない。
大通りには露店がつらなり、雑踏に物売りたちの威勢のいいだみ声がとびかう。石甃の車道には物資を満載した荷馬車や乗合馬車が行き交い、それなりの殷賑ぶりをみせていた。
ユーミは果物売りの人のよさそうな中年女をつかまえて、懐から取り出した紙片を示し、二言三言ことばを交わした。
「あんがと、おばちゃん。あ、林檎一コもらうね♪」
「五リーズだよ。――ちょっとお客さん。お釣りお釣り!」
「いいよ。とっといてー」
「だってこれ、五〇〇リーズ銅貨じゃないか。あ、お客さんてば」
ユーミは笑って手をふりながら雑踏にまぎれた。歩きながら上着で林檎をふき、かぶりつく。
途中、幾度か実直そうな露天商に道を訊ねたりしながら、いつしか大通りをそれ、入り組んだ小路に入ってゆく。
ありふれた路地裏の風景――家々の窓から窓へは洗濯物をいっぱいに干したヒモが掛け渡され、風にそよいでいる。猫がバルコニーの植木鉢の横で昼寝をしていた。どこかで子供らがはしゃぐ声が聞こえる。ちょうどお昼時なので、そこいらの民家の窓からは美味そうな匂いがただよってくる。大通りの喧騒を離れたそこには、ちょっとした長閑さがあった。
ユーミはキョロキョロしながら小路を歩いていたが、べつだん見知らぬ街の風物に心引かれたというふうでもなく、何かを探す様子であった。
(……ここかな?)
やがて――一見しただけではそうであるとは見分けがたい店構えの道具屋の前に立って、ひっそりと故意に目立たないよう掛けているのではないかとさえ思われる看板と、例の懐にしまってあった紙片とを交互に見比べる。
中へ入ろうとドアを開けると、仕掛け鈴が鳴った。店の中は狭い上、まるで物置小屋かなにかのように木箱やら壷やらが乱雑に積み重なっており、ほとんど立錐の余地もないほどであった。
用途がいまいち謎な摩訶不思議な形状のアイテム類が壁の棚に陳列されている。薬等も扱っているらしく、天井からあやしげな干物だの植物の束だのがぶら下がっており、さすがに馥郁とはいきかねるが、独特の香気が店内を満たしていた。
「へ〜♪ さすがはゼランの都ってとこだね。こんな下町の道具屋なのに、この品揃えときた」
ユーミは無造作に置いてある道具類を手にとって見つつ、感じ入って口笛を吹いた。彼女はそれら謎めいた商品の価値を理解するふうであった。埃がたち、天窓からの頼りない光の帯のなかでキラキラと輝き舞った。
「ふん。こんな下町の道具屋で悪かったね」
店の奥のほうから声がした。
見ると、小さな丸眼鏡をかけた皺くちゃな老婆が、こちらを見向きもせず、帳簿のようなものを見ながらパチパチと算盤を弾いていた。
「とっとと帰んな。ここはあんなみたいなガキが冷かしで来るような店じゃないんだ。玩具屋なら表通りのほうさね」
「御挨拶だね〜。客に向かってさ。ん? なにしてんのさ、ばーちゃん」
「見てわからないかい? この娘は。勘定してるのさ」
「その珠がいっぱいついてるの何?」
老婆が手を止めて、初めてユーミのほうを見た。
「何ってあんた……算盤だよ。知らないのかい」
ユーミは興味津々といった感じである。
「それがソロバンてやつか〜。そーゆう計算器があるって話は聞いたことあるけど。ねね、どうやるの?」
「お前さん。異国の人だね。何しに来なすった」
「だから買い物に来たんだって」
「そりゃあ、そうなんだろうが。ウチの商品はあんた、庶民のはした金で買えるようなシロモノじゃないんだよ? もっとも連中にとっちゃあガラクタでしかないんだろうがねぇ。ウチは現金掛け値なしの商売だ。――お前さん、失礼だがその、持ち合わせのほうは大丈夫なのかえ?」
「ん〜と……ほらよ。ゼラン金貨が二〇〇枚くらいかな」
ユーミは懐の隠しに手をいれ、なかなか重そうな革袋を取り出して、老婆の前にどさりと置いてみせた。老婆の目の色が変わった。ゼラン金貨一枚で平均的な庶民なら一年は暮せるだろう。老婆は抜け目なく革袋の中を確認した。金貨を一枚手にとると、あちこち歯の抜け落ちた口をあんぐりとあけ、がりっと齧った。
「ふむ……」
「本物だろ?」
一瞬後、老婆は手のひらを返したような笑顔となり、揉手しながら云った。
「これはこれはお客様。このようなむさ苦しい店へよくぞおいでくだされました。ひゃっひゃっひゃ」
そのあまりにもあからさまな変わり身ぶりにユーミは思わず苦笑した。
「で、どのような品をお求めで?」
「……満月のてっぺん」
ユーミは脈絡のなさげなその言葉をぼそりと囁いた。が、効果は覿面にあらわれた。
ユーミの合言葉らしきその囁きを耳にした途端、老婆の愛想笑いは影をひそめ、値踏みするような鋭いまなざしがユーミに向けられた。
「お前さん。イルティーバ族のお人かい? そうは見えないがねぇ」
「そーゆーワケでもないんだな〜これが。俺もいろいろあるんだよね」
ユーミは曖昧に言葉をにごすと肩をすくめた。
「……ま、穿鑿はよしとこうかね。それがこの稼業の仁義ってもんさね。代価さえ払ってくれりゃあ、あたしゃな〜んも見なかったし、聞かなかったし、云いやしないよ」
「じゃあ手早く商談といこうか。《カナングの呪酒》を見せてもらおうかな。ないとは云わせないよ?」
ユーミはさらりと云ってみせたが、それを聞くや否や、さしも一癖ありげなこの老婆もうめかずにはいられなかった。
「あんた……それが何か分って云ってるんだろうね?」
「もちろん」
「そりゃあるさ。カナングの呪酒くらい。このシャン婆の店はローゼルテ界隈――うんにゃ! ニーブレン界隈じゃ一番の魔法具屋だからね。時間と金さえ貰えりゃ、どんな稀少な発掘品でも用意して見せるさね」
シャン婆は請け合った。
「けれど、ありゃすくなくとも魔術士級の魔法使いでなきゃ手におえない魔法薬だよ。薬効と副作用については承知しているんだね?」
「一応、ね」
(やれやれ。あのがめついばーちゃん、だいぶんボッてくれたな〜。やっぱグランヴェルトあたりよりだいぶ値が張るや)
ユーミはシャン婆との値引きの駆け引きを思い出して苦笑した。
(塒を決めてしけこむか。安宿がありゃいいんだけど。ん?)
ユーミが歩いていた街の裏小路のずっと先に、十人ほどの男が屯している。見るからに凶悪そうな黒い眼帯の男だの、刺青を彫った筋骨隆々たる上半身をこれ見よがしに晒してる男だの、どうやらヤク中の、焦点のあわない目でぶつぶつと何事かつぶやきながら涎をたらしてナイフを弄んでいる男だの、にやにやと下卑た笑みをうかべながら首をぽきぽきとならしている疵だらけ男だの、いかにもやくざな連中であった。
ふと思い立って、ちらりと後ろのほうに注意を向けると、これまた十人前後の柄の悪い男たちが、ユーミに三〇フヤールほどの間隔を置いてぞろぞろ歩いてくる。唾を吐き散らし、道端の樽を蹴飛ばし、家々の煉瓦塀や漆喰壁を無闇に棒でどつきつつヨタヨタと。
一本道なので前後を塞がれたかたちだ。
(あ〜あ、めんどくさいなーもー。こいつら、絶対インネンつけてくるよ……)
何事もなく済むことはあまり期待してなかったが、それでもユーミは男たちの横をすりぬけていこうとした。その時、男の一人がユーミにぶつかってきた。
「うぎゃぁぁぁ〜! い、痛ェ! いてえよォォォ! 骨が折れるゥ〜〜!」
ユーミにぶつかった男は、わざとらしく地面をのたうちまわった。
「ちょっと待たんかいワレ」
大きな毛むくじゃらの手が伸びてきて、ユーミの肩をがしっと掴んだ。ユーミは内心舌打ちした。
この手合いは下手に出ると嵩にかかって居丈高になる。かといって今のユーミには、治安当局の介入を招くような騒擾を避けたいとある事情があった。となれば……
(三十六計逃げるに如かず)
ユーミは遁走の隙を窺った。
「おう小僧。ぶつかっておいて何の挨拶も無しかい。あ?」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいだぁ〜? なめとんのかコラァ! ごめんなさいで済んだら役人はいらんのじゃボケー!!」
前歯のないつるっ禿の男が目を怒らせてがなりたてる。
「謝る時ゃなぁ、手ェついて謝らんかい! 土下座しろつっとるんじゃ! 耳ィ聞こえねーのかあ小僧ぉぉぉ!!」
ユーミは云われるがまま身を屈めようとした。その瞬間、おさえきれず迸る殺気。ユーミは間一髪、剣を突き出してきた相手の懐にとびこんでこれを躱すと、その相手の股間に痛烈な膝蹴りを見舞った。
「がぁっ!」
相手の男は口からぶくぶくと泡をふきながら、白目を剥いてどさりと倒れた。
ユーミがゆらりと立ちあがった。
「なぁんだ。おっちゃんたち、喧嘩したいんじゃないんだ。タマの取り合いしたいワケだ。なら最初からそう云ってくれなきゃなー。えへへへへ」
屈託のない笑顔。大男どもにぐるり囲まれたその小柄な体はしかし、どこか獰猛な豹を思わせた。
〜続く〜